・・・そして第一部の長いソナタを一小節も聴き落すまいとしながら聴き続けていった。それが終わったとき、私は自分をそのソナタの全感情のなかに没入させることができたことを感じた。私はその夜床へはいってからの不眠や、不眠のなかで今の幸福に倍する苦痛をうけ・・・ 梶井基次郎 「器楽的幻覚」
・・・…… 路に沿うた竹藪の前の小溝へは銭湯で落す湯が流れて来ている。湯気が屏風のように立騰っていて匂いが鼻を撲った――自分はしみじみした自分に帰っていた。風呂屋の隣りの天ぷら屋はまだ起きていた。自分は自分の下宿の方へ暗い路を入って行った・・・ 梶井基次郎 「泥濘」
・・・「そう気を落とすものじゃアない、しっかりなさい」と、この店の亭主が言った。それぎりでたれもなんとも言わない、心のうちでは「長くあるまい」と言うのに同意をしているのである。「六銭しかない、これでなんでもいいから……」と言いさして、咳で・・・ 国木田独歩 「窮死」
・・・ 十日前のこと、自分は縁先に出て月を眺め、朧ろに霞んで湖水のような海を見おろしながら、お露の酌で飲んでいると、ふと死んだ妻子のこと、東京の母や妹のことを思いだし、又この身の流転を思うて、我知らず涙を落すと、お露は見ていたが、その鈴のような・・・ 国木田独歩 「酒中日記」
・・・彼等は裏から敵を落すことを知らなかった。「アメリカ人はずるいんだ。だから弗の偽札は拵えずに、円の偽札を拵えるんだ。ろくな奴じゃない!」 娘は、十五でもう一人前の女になっていた。脚の丈夫な、かゝとの高い女靴をはいて歩く時の恰好が、活溌・・・ 黒島伝治 「氷河」
・・・今まで私は黄落する霜葉の方に気を取られて冬の初めに見られる常盤樹の新葉にはそれほどの注意も払わずに居た。あの初冬の若葉は一年を通して樹木の世界を見る最も美わしいものの一つだ。「冬」はその年も槇の緑葉だの、紅い実を垂れた万両なぞを私に指して見・・・ 島崎藤村 「三人の訪問者」
・・・婦人はもうこれなり焼け死ぬものと見きわめをつけやっと帯や小帯をつないで子どもをしばりつけて川の上へたぐり下し、下を船がとおりかかったらその中へ落すつもりでまっているうちに、つい火気で目がくらんで子どもをはなしてしまい、じぶんも間もなく橋と一・・・ 鈴木三重吉 「大震火災記」
一 たましいの、抜けたひとのように、足音も無く玄関から出て行きます。私はお勝手で夕食の後仕末をしながら、すっとその気配を背中に感じ、お皿を取落すほど淋しく、思わず溜息をついて、すこし伸びあがってお勝手・・・ 太宰治 「おさん」
・・・そこいらの漁師の神さんが鮪を料理するよりも鮮やかな手ぶりで一匹の海豹を解きほごすのであるが、その場面の中でこの動物の皮下に蓄積された真白な脂肪の厚い層を掻き取りかき落すところを見ていた時、この民族の生活のいかに乏しいものであるかということ、・・・ 寺田寅彦 「映画雑感6[#「6」はローマ数字、1-13-26]」
・・・十三人……山本と申すのは、晴二郎の姉の縁先きなんでして、その時の棺側が、礼帽の上等兵が四人、士官が中尉がお一人に少尉がお一人……尤も連隊から一里のあいだは、その外に旗が三本、蓮花が三本、これは其処まで落すことになっているんで……。 その・・・ 徳田秋声 「躯」
出典:青空文庫