・・・まア、少し落ちついて行くさ」と、再び室の中に押し込んで、自分はお梅とともに廊下の欄干にもたれて、中庭を見下している。 研ぎ出したような月は中庭の赤松の梢を屋根から廊下へ投げている。築山の上り口の鳥居の上にも、山の上の小さな弁天の社の屋根・・・ 広津柳浪 「今戸心中」
・・・或は高き処から落ちて気絶したる者あらば酒か焼酎を呑ませ、又切疵ならば取敢えず消毒綿を以て縛り置く位にして、其外に余計の工夫は無用なり。或人が剃刀の疵に袂草を着けて血を止めたるは好けれども、其袂草の毒に感じて大患に罹りたることあり。畢竟無学の・・・ 福沢諭吉 「新女大学」
・・・況や家道は日に傾いて、心細い位置に落ちてゆく。老人共は始終愁眉を開いた例が無い。其他種々の苦痛がある。苦痛と云うのは畢竟金のない事だ。冗い様だが金が欲しい。併し金を取るとすれば例の不徳をやらなければならん。やった所で、どうせ足りッこは無い。・・・ 二葉亭四迷 「予が半生の懺悔」
・・・其方もある夏の夕まぐれ、黄金色に輝く空気の中に、木の葉の一片が閃き落ちるのを見た時に、わしの戦ぎを感じた事があるであろう。凡そ感情の暖かい潮流が其方の心に漲って、其方が大世界の不思議をふと我物と悟った時、其方の土塊から出来ている体が顫えた時・・・ 著:ホーフマンスタールフーゴー・フォン 訳:森鴎外 「痴人と死と」
・・・ぐりながら終に四国へ渡った、ここには八十八個所の霊場のある処で、一個所参れば一人喰い殺した罪が亡びる、二個所参れば二人喰い殺した罪が亡びるようにと、南無大師遍照金剛と吠えながら駈け廻った、八十七個所は落ちなく巡って今一個所という真際になって・・・ 正岡子規 「犬」
・・・ 日が強く照るときは岩は乾いてまっ白に見え、たて横に走ったひび割れもあり、大きな帽子を冠ってその上をうつむいて歩くなら、影法師は黒く落ちましたし、全くもうイギリスあたりの白堊の海岸を歩いているような気がするのでした。 町の小学校でも・・・ 宮沢賢治 「イギリス海岸」
・・・春らしい柔かい雪が細い別荘の裏通りを埋め、母衣に触った竹の枝からトトトト雪が俥の通った後へ落ちる。陽子はさし当り入用な机、籐椅子、電球など買った。四辺が暗くなりかけに、借部屋に帰った。上り端の四畳に、夜具包が駅から着いたままころがしてある。・・・ 宮本百合子 「明るい海浜」
・・・そしてある辻まで来ると、かれは小さな糸くずが地上に落ちているのを見つけた。このアウシュコルンというのはノルマン地方の人にまがいなき経済家で、何によらず途に落ちているものはことごとく拾って置けば必ず何かの用に立つという考えをもっていた。そこで・・・ 著:モーパッサン ギ・ド 訳:国木田独歩 「糸くず」
・・・茶碗の底には五立方サンチメエトル位の濃い帯緑黄色の汁が落ちている。花房はそれを舐めさせられるのである。 甘みは微かで、苦みの勝ったこの茶をも、花房は翁の微笑と共に味わって、それを埋合せにしていた。 或日こう云う対坐の時、花房が云った・・・ 森鴎外 「カズイスチカ」
・・・灸は裏の縁側へ出て落ちる雨垂れの滴を仰いでいた。「雨こんこん降るなよ。 屋根の虫が鳴くぞよ。」 河は濁って太っていた。橋の上を駄馬が車を輓いて通っていった。生徒の小さ番傘が遠くまで並んでいた。灸は弁当を下げたかった。早く・・・ 横光利一 「赤い着物」
出典:青空文庫