・・・この物語を聞き、この像を拝するにそぞろに落涙せり。かく荒れ果てたる小堂の雨風をだに防ぎかねて、彩色も云々。 甲冑堂の婦人像のあわれに絵の具のあせたるが、遥けき大空の雲に映りて、虹より鮮明に、優しく読むものの目に映りて、その人・・・ 泉鏡花 「一景話題」
・・・ とただ懐かしげに嬉しそうにいう顔を、じっと見る見る、ものをもいわず、お民ははらはらと、薄曇る燈の前に落涙した。「お民さん、」「謹さん、」 とばかり歯をカチリと、堰きあえぬ涙を噛み留めつつ、「口についていうようでおかしい・・・ 泉鏡花 「女客」
・・・ 百合若の矢のあとも、そのかがみよ、と見返る窓に、私は急に胸迫ってなぜか思わず落涙した。 つかつかと進んで、驚いた技手の手を取って握手したのである。 そこで知己になった。大正三年二月・・・ 泉鏡花 「革鞄の怪」
・・・ と言いかけて、言葉がつまり、落涙しました。「奥さん。まことに失礼ですが、いくつにおなりで?」 と男のひとは、破れた座蒲団に悪びれず大あぐらをかいて、肘をその膝の上に立て、こぶしで顎を支え、上半身を乗り出すようにして私に尋ねます・・・ 太宰治 「ヴィヨンの妻」
・・・からあざ笑われているような、いても立っても居られぬ気持で、こんなときに乙やんが生きていたらな、といまさらながら死んだ須々木乙彦がなつかしく、興奮がそのままくるりと裏返って悲愁断腸の思いに変じ、あやうく落涙しそうになって、そのとき、「よう・・・ 太宰治 「火の鳥」
・・・一九二八年の初夏、五年ぶりでゴーリキイがソヴェト同盟に帰って来た時、彼は大衆的な歓迎の嵐におされ、殆ど落涙した。六十を越しても、真理を求める精神は青春を保ち、一九三二年、世界的な規模で彼の文学生活四十年が祝われた時、ゴーリキイは、最も混り気・・・ 宮本百合子 「逝けるマクシム・ゴーリキイ」
・・・某が買い求め候香木、畏くも至尊の御賞美を被り、御当家の誉と相成り候事、存じ寄らざる儀と存じ、落涙候事に候。 その後某は御先代妙解院殿よりも出格の御引立を蒙り、寛永九年御国替の砌には、三斎公の御居城八代に相詰め候事と相成り、あまつさえ殿御・・・ 森鴎外 「興津弥五右衛門の遺書」
・・・某が買求め候香木、畏くも至尊の御賞美を被り、御当家の誉と相成り候事、存じ寄らざる仕合せと存じ、落涙候事に候。 さりながら一旦切腹と思定め候某、竊に時節を相待ちおり候ところ、御隠居松向寺殿は申に及ばず、その頃の御当主妙解院殿よりも出格の御・・・ 森鴎外 「興津弥五右衛門の遺書(初稿)」
出典:青空文庫