・・・その時相手がいかにも落着いた態度で出てきたら、手にペンでも持って出てきたら、その時こそ惨めな自分が面と面を突きあわすことを露骨に感ぜさせられるだろう。それにはかなわない。 ――上りになっていた道をむしろ早足で歩いてきたので身体が熱かった・・・ 小林多喜二 「雪の夜」
・・・もう少し気分を落着けるようにして下さい」「落着けるにも、落着けないにも、俺は別に何処も悪くないで」とおげんの方では答えた。「唯、何かこう頭脳の中に、一とこ引ッつかえたようなところが有って、そこさえ直れば外にもう何処も身体に悪いところはな・・・ 島崎藤村 「ある女の生涯」
・・・と、少年佐伯は、大学の制服、制帽で、ぴかぴか光る靴をはき、ちゃんと私の枕元に立っている。「おい、僕は帰るぞ。」と落着いた口調で言い、「君は、眠っちゃったじゃないか。だらしないね。」「眠った? 僕が?」「そうさ。可哀そうなアベルの・・・ 太宰治 「乞食学生」
・・・彼等はミランに落着いた。そこでしばらく自由の身になった少年はよく旅行をした。ある時は単身でアペニンを越えて漂浪したりした。間もなく彼はチューリヒのポリテキニクムへ入学して数学と物理学を修める目的でスイスへやって来た。しかし国語や記載科学の素・・・ 寺田寅彦 「アインシュタイン」
・・・此の事件もこれで落着したものと思っていると、四五日過ぎてお民はまた金をねだりに来た。其の言う語と其の態度とは以前よりも一層不穏になっていたので、僕は自身に応接するよりも人を頼んだ方がよいと思って、知合の弁護士を招いて万事を委託した。 書・・・ 永井荷風 「申訳」
・・・主人夫婦は事件の落着するまでは毎晩旧宅へ帰って寝なければならぬ。新宅には三階に寝る妹とカーロー君とジャック君とアーネスト君である。カーロー君とジャック君は犬の名であってアーネスト君はここの主人の店に使っている若き人間の名である。我輩の敬服し・・・ 夏目漱石 「倫敦消息」
・・・はただ今後の成行に眼をつけ、そのいずれかまず直接法の不便利を悟りて、前に出したる手を引き、口を引き、理屈を引き、さらに思想を一層の高きに置きて、無益の対陣を解く者ならんと、かたわらより見物して水掛論の落着を待つのみ。 この全編の大略を概・・・ 福沢諭吉 「学者安心論」
・・・そろりそろりと臑皿の下へ手をあてごうて動かして見ようとすると、大磐石の如く落着いた脚は非常の苦痛を感ぜねばならぬ。余はしばしば種々の苦痛を経験した事があるが、此度のような非常な苦痛を感ずるのは始めてである。それがためにこの二、三日は余の苦し・・・ 正岡子規 「九月十四日の朝」
・・・この矛盾的な賃銀問題の落着を可能にしている根拠は、科学主義工業がどこまでも農村生活の現状を保守して、副業にとどめて置こうとしているところにひそんでいるのである。強請して小規模で分散的な副業に止めておこうとする理由は「集団作業の心理状態には被・・・ 宮本百合子 「新しい婦人の職場と任務」
・・・て言い兼るように、出そうと思う言葉は一々長い歎息になって、心に畳まってる思いの数々が胸に波を打たせて、僕をジット抱〆ようとして、モウそれも叶わぬほどに弱ったお手は、ブルブル震えていましたが、やがて少し落着て……、落着てもまだ苦しそうに口を開・・・ 若松賤子 「忘れ形見」
出典:青空文庫