・・・もう一つの例は『一代女』の終りに近く、ヒロインの一代の薄暮、多分雨のそぼ降る折柄でもあったろう「おもひ出して観念の窓より覗けば、蓮の葉笠を着たるやうなる子供の面影、腰より下は血に染みて、九十五、六程も立ならび、声のあやぎれもなくおはりよ/\・・・ 寺田寅彦 「西鶴と科学」
・・・小説雁の一篇は一大学生が薄暮不忍池に浮んでいる雁に石を投じて之を殺し、夜になるのを待ち池に入って雁を捕えて逃走する事件と、主人公の親友が学業の卒るを待たずして独逸に遊学する談話とを以て局を結んでいる。今日不忍池の周囲は肩摩轂撃の地となったの・・・ 永井荷風 「上野」
・・・暗澹たる空は低く垂れ、立木の梢は雲のように霞み渡って居ながら、紛々として降る雪、満々として積る雪に、庭一面は朦朧として薄暮よりも明かった。母と二人、午飯を済まして、一時も過ぎ、少しく待ちあぐんで、心疲れのして来た時、何とも云えぬ悲惨な叫声。・・・ 永井荷風 「狐」
・・・孟宗竹の生茂った藪の奥に晩秋の夕陽の烈しくさし込み、小鳥の声の何やら物急しく聞きなされる薄暮の心持は、何に譬えよう。 深夜天井裏を鼠の走り廻るおそろしい物音に驚かされ、立って窓の戸を明けると、外は昼のような月夜で、庭の上には樹の影が濃く・・・ 永井荷風 「西瓜」
・・・来路を顧ると、大島町から砂町へつづく工場の建物と、人家の屋根とは、堤防と夕靄とに隠され、唯林立する煙突ばかりが、瓦斯タンクと共に、今しも燦爛として燃え立つ夕陽の空高く、怪異なる暮雲を背景にして、見渡す薄暮の全景に悲壮の気味を帯びさせている。・・・ 永井荷風 「放水路」
・・・雲は地上に近く掩いかぶさってあたりが薄暮の如く闇くなった。頬白は塒を求めて慌ててさまよった。冷気を含んだ疾風がごうと蜀黍の葉をゆすって来た。遠く夕立の響が聞えて来た。文造は堪らなくなった。彼は鍬を担いで飛び出した。それと同時に屋根へ打ち込ん・・・ 長塚節 「太十と其犬」
・・・彼は一片の麺麭も食わず一滴の水さえ飲まず、未明より薄暮まで働き得る男である。年は二十六歳。それで戦が出来ぬであろうか。それで戦が出来ぬ位なら武士の家に生れて来ぬがよい。ウィリアム自身もそう思っている。ウィリアムは幻影の盾を翳して戦う機会があ・・・ 夏目漱石 「幻影の盾」
・・・彼らは銃剣で敵を突き刺し、その辮髪をつかんで樹に巻きつけ、高粱畠の薄暮の空に、捕虜になった支那人の幻想を野曝しにした。殺される支那人たちは、笛のような悲声をあげて、いつも北風の中で泣き叫んでいた。チャンチャン坊主は、無限の哀傷の表象だった。・・・ 萩原朔太郎 「日清戦争異聞(原田重吉の夢)」
・・・氏の描く世界が、従来多くの作家に扱われて来ている種類のインテリゲンツィアでなく、さりとてプロレタリア文学が描こうとする社会層でもなくて、半インテリゲンツィアとでも云われるような半ば明るみに半ば思想の薄暮に生きる人々の群であることも、見落せな・・・ 宮本百合子 「今日の文学の展望」
・・・ トラファルガア広場のトーマス・クック本店横から二台の大型遊覧自動車が午後七時の薄暮をついて動き出した。 トーマス・クック会社名前入りの制帽をかぶった肥っちょの案内人が坐席から立ち上って「ここがオックスフォード通。只今通りすぎつ・・・ 宮本百合子 「ロンドン一九二九年」
出典:青空文庫