・・・子供がいたずらに小石でも投げたかと思ったが、そうではなくて、それは庭の藤棚の藤豆がはねてその実の一つが飛んで来たのであった。宅のものの話によると、きょうの午後一時過ぎから四時過ぎごろまでの間に頻繁にはじけ、それが庭の藤も台所の前のも両方申し・・・ 寺田寅彦 「藤の実」
・・・ 庭の霧島つつじが今盛りで、軒の藤棚の藤も咲きかけている。 あらゆるレビューのうちで何遍繰返し繰返し観ても飽きない、観ればみる程に美しさ面白さの深まり行くものは、こうした自然界のレビューである。この面白いレビューの観賞を生涯の仕・・・ 寺田寅彦 「マーカス・ショーとレビュー式教育」
・・・しかし近年は裏の藤棚の下の井戸水を頭へじゃぶじゃぶかけるだけで納涼の目的を達するという簡便法を採用するようになった。年寄りの冷や水も夏は涼しい。 われわれ日本人のいわゆる「涼しさ」はどうも日本の特産物ではないかという気がする。シナのよう・・・ 寺田寅彦 「涼味数題」
・・・それが深水と打ちあわせてある場所で、古びた藤棚の下に石の丸卓があって、雨ざらしのベンチがあった。さて――、一ばんさいしょに何といえばいいだろう。ベンチに坐ったりたったりしながら、三吉はあわてていた。それはゆうべから考えていることだが、まだわ・・・ 徳永直 「白い道」
・・・向こうの藤棚の陰に見える少し出張った新築の中二階などとくらべると、まるで比較にならないほど趣が違っていた。「こんな所にはいっていたのか」と思いながら、自分は茶をのんでしばらく座敷を見回していたが、やがて硯を借りて、重吉の所へやる手紙を書・・・ 夏目漱石 「手紙」
・・・ 胸の中には何とも云い知れぬ喜びと平和な思いが満ち満ちて人が見たら変だろうと思われる微笑を唇に浮べながら地面を見て静かに藤棚の下を歩き廻って居た。 それまで一寸も気のつかないで居た事だけれ共さっきまで私の居たすぐわきに下の級のものが・・・ 宮本百合子 「M子」
・・・ あの古い藤棚の下では、今も猶、私の耳に空気を顫わすカレドニアンが響いている。 文字を徹して、私共の久しく御目にかからない先生がたに、御挨拶申上ます。〔一九二一年十二月〕 宮本百合子 「思い出すかずかず」
・・・ 加之、そこには昔ながらの建物に相応しい藤棚があり、庭があり、泉水がありました。全体として、狭いながらも、それはチャンと整った一区画を示しているものでした。総てに懐しい昔の錆が現われて、石に生えてる苔までが、私をチャームするのです。此処・・・ 宮本百合子 「「奈良」に遊びて」
・・・そっちに年を経た藤棚があって、季節になると紫の花房を垂れた。その下はうすぐらくて、いい匂いがした。蜂がたくさん花房のまわりをとんだ。 からりとした男児運動場のところへ、ベビー・オルガンをもち出して、六年女児は体操の時間にカドリールとコチ・・・ 宮本百合子 「藤棚」
出典:青空文庫