・・・ 医学士はと、ふと見れば、渠は露ほどの感情をも動かしおらざるもののごとく、虚心に平然たる状露われて、椅子に坐りたるは室内にただ渠のみなり。そのいたく落ち着きたる、これを頼もしと謂わば謂え、伯爵夫人の爾き容体を見たる予が眼よりはむしろ心憎・・・ 泉鏡花 「外科室」
・・・ ある晩のこと、虚心になって筆を走らせていると、吉弥がはしご段をとんとんあがって来た。「………」何も言わずすぐ僕にすがりついてわッと泣き出した。あまり突然のことだから、「どうしたのだ?」と、思わず大きな声をして、僕はかの女の片手・・・ 岩野泡鳴 「耽溺」
・・・既に形式的に出来上っているところの主義の為めの作物、主義の為めの批評と云うものは、虚心平気で、自己対自然の時に感じた真面目な感じとは是非区別されるものと思う。 よく真面目と云うことを云う。僕はこの真面目と云うことは即ち自分が形式に囚われ・・・ 小川未明 「動く絵と新しき夢幻」
・・・げんに眼の前にして、虚心で居れるわけもない。坂田は怖いものを見るように、気弱く眼をそらした。 それが昔赤玉で見た坂田の表情にそっくりだと、松本もいきなり当時を生々しく想い出して、「そうか。もう五年になるかな。早いもんやな」 そし・・・ 織田作之助 「雪の夜」
・・・謹啓、よもの景色云々と書きだして、御尊父様には御変りもこれなく候や、と虚心にお伺い申しあげ、それからすぐ用事を書くのであった。はじめお世辞たらたら書き認めて、さて、金を送って下されと言いだすのは下手なのであった。はじめのたらたらのお世辞がそ・・・ 太宰治 「ロマネスク」
・・・ 科学的論文を書く人が虚心でそうして正直である限りだれでも経験するであろうことは、研究の結果をちゃんと書き上げみがきあげてしまわなければその研究が完結したとは言われない、ということである。実際書いてみるまではほとんど完備したつもりでいる・・・ 寺田寅彦 「科学と文学」
・・・ 失望の後に来る虚心の状態に帰って考えてみると、差出人のおおよその見当は、もう小包を手にした瞬間からついていたのであった。郷里にいる二人の姉のいずれかよりほかに、こういう物を送って来そうな先は考えられなかった。去年の秋K市の姉から寒竹の・・・ 寺田寅彦 「球根」
・・・しかしこれは手や指を使うというよりもむしろ頭を使うためらしく思われた、芝を刈るというような、機械的な、虚心でできる動作ならばおそらくそんな事はあるまいと思われた。少なくも一日に半時間か一時間ずつ少しも急いだり努力したりしないで、気楽にやって・・・ 寺田寅彦 「芝刈り」
・・・外のものに対して盲目な公衆の眼にはどうしても軽視され時には滑稽視されるのは誠に止むを得ぬ次第であるが、そういう人でも先ず試みに津田君のこの種の絵と技巧の一点張の普通の絵と並べて壁間に掲げ、ゆっくり且つ虚心に眺めて見るだけの手数をしたならば、・・・ 寺田寅彦 「津田青楓君の画と南画の芸術的価値」
・・・一種の淡白な味を味わってみる事は虚心な鑑賞家に取って困難ではないだろう。この人の絵をだんだんに突きつめて行くと、結局マルケエなどのような方面へ行きはしないかという気がする。 津田氏の日本画は一流のものであるが、今年の洋画はただの一点・・・ 寺田寅彦 「二科会展覧会雑感」
出典:青空文庫