・・・ ――すると急に目がさめた。蚊帳の中には次の間にともした電燈の光がさしこんでいた。妻は二つになる男の子のおむつを取り換えているらしかった。子供は勿論泣きつづけていた。自分はそちらに背を向けながら、もう一度眠りにはいろうとした。すると妻が・・・ 芥川竜之介 「子供の病気」
・・・その晩も僕はふだんのように本を二三冊蚊帳の中へ持ちこみ、枕もとの電燈を明るくした。「何時?」 これはとうに一寝入りした、隣の床にいる妻の声だった。妻は赤児に腕枕をさせ、ま横にこちらを眺めていた。「三時だ。」「もう三時。あたし・・・ 芥川竜之介 「死後」
・・・ 主人は大胡座で、落着澄まし、「吝なことをお言いなさんな、お民さん、阿母は行火だというのに、押入には葛籠へ入って、まだ蚊帳があるという騒ぎだ。」「何のそれが騒ぎなことがあるもんですか。またいつかのように、夏中蚊帳が無くっては、そ・・・ 泉鏡花 「女客」
・・・日あたりの納戸に据えた枕蚊帳の蒼き中に、昼の蛍の光なく、すやすやと寐入っているが、可愛らしさは四辺にこぼれた、畳も、縁も、手遊、玩弄物。 犬張子が横に寝て、起上り小法師のころりと坐った、縁台に、はりもの板を斜めにして、添乳の衣紋も繕わず・・・ 泉鏡花 「海異記」
・・・ 母の手前兄夫婦の手前、泣くまいとこらえてようやくこらえていた僕は、自分の蚊帳へ這入り蒲団に倒れると、もうたまらなく一度にこみ上げてくる。口へは手拭を噛んで、涙を絞った。どれだけ涙が出たか、隣室の母から夜が明けた様だよと声を掛けられるま・・・ 伊藤左千夫 「野菊の墓」
・・・そんな事で、却て岡村はどうしたろうとも思わないでいる所へ、蚊帳の釣手の鐶をちゃりちゃり音をさせ、岡村は細君を先きにして夜の物を運んで来た。予は身を起して之を戸口に迎え、「夜更にとんだ御厄介ですなア。君一向蚊は居らん様じゃないか。東京から・・・ 伊藤左千夫 「浜菊」
・・・その裏藪から、蚊帳を吊った座敷がまる見えでした。ラヂオがあると見えて、音楽がきこえます。蚊に食われながら聴いていると、やがてそれがすんで、次に落語の放送でした。が、アナウンサーの紹介を聴いたとたん、私は思わず涙を落しました。出演者は思いもか・・・ 織田作之助 「アド・バルーン」
・・・で、自然心斎橋筋や道頓堀界隈へ出掛けても、絢爛たる鈴蘭燈やシャンデリヤの灯や、華かなネオンの灯が眩しく輝いている表通りよりも、道端の地蔵の前に蝋燭や線香の火が揺れていたり、格子の嵌ったしもた家の二階の蚊帳の上に鈍い裸電燈が点っているのが見え・・・ 織田作之助 「世相」
・・・次ぎの室で子供等が二人、蚊帳も敷蒲団もなく、ボロ毛布の上へ着たなりで眠っていた。 朝飯を済まして、書留だったらこれを出せと云って子供に認印を預けて置いて、貸家捜しに出かけようとしている処へ、三百が、格子外から声かけた。「家も定まった・・・ 葛西善蔵 「子をつれて」
・・・ある窓のなかには古ぼけた蚊帳がかかっていた。その隣の窓では一人の男がぼんやり手摺から身体を乗り出していた。そのまた隣の、一番よく見える窓のなかには、箪笥などに並んで燈明の灯った仏壇が壁ぎわに立っているのであった。石田にはそれらの部屋を区切っ・・・ 梶井基次郎 「ある崖上の感情」
出典:青空文庫