・・・ 北海道の冬は空まで逼っていた。蝦夷富士といわれるマッカリヌプリの麓に続く胆振の大草原を、日本海から内浦湾に吹きぬける西風が、打ち寄せる紆濤のように跡から跡から吹き払っていった。寒い風だ。見上げると八合目まで雪になったマッカリヌプリは少・・・ 有島武郎 「カインの末裔」
・・・また見よ、北の方なる蝦夷の島辺、すなわちこの北海道が、いかにいくたの風雲児を内地から吸収して、今日あるに到ったかを。 我が北海道は、じつに、我々日本人のために開かれた自由の国土である。劫初以来人の足跡つかぬ白雲落日の山、千古斧入らぬ蓊鬱・・・ 石川啄木 「初めて見たる小樽」
・・・むかし、このへん一帯はひろびろした海であったそうで、義経が家来たちを連れて北へ北へと亡命して行って、はるか蝦夷の土地へ渡ろうとここを船でとおったということである。そのとき、彼等の船が此の山脈へ衝突した。突きあたった跡がいまでも残っている。山・・・ 太宰治 「魚服記」
・・・で、東北日本の陸地の生まれたとき津軽海峡はおそらく陸でつながっていたのではないかと思われるが、それがその後の地変のために切断してそれが潮流のために広く深く掘りえぐられた、それから後にどこかからひぐまが蝦夷地に入り込んで来たのではないかと想像・・・ 寺田寅彦 「日本人の自然観」
・・・模様は蝦夷人の着る半纏についているようなすこぶる単純の直線を並べて角形に組み合わしたものに過ぎぬ。彼は時として槍をさえ携える事がある。穂の短かい柄の先に毛の下がった三国志にでも出そうな槍をもつ。そのビーフ・イーターの一人が余の後ろに止まった・・・ 夏目漱石 「倫敦塔」
・・・今の人民の世界にいて事を企つるは、なお、蝦夷地に行きて開拓するが如し。事の足らざるは患に非ず、力足らざるを患うべきなり。 然るに、今の学者はその思想を一方に偏し、ひたすら政府の政に向って心を労するのみにして、自家の領分には毫も余地を見出・・・ 福沢諭吉 「学者安心論」
・・・人の智徳は教育によりておおいに発達すといえども、ただその発達を助くるのみにして、その智徳の根本を資るところは、祖先遺伝の能力と、その生育の家風と、その社会の公議輿論とにあり。蝦夷人の子を養うて何ほどに教育するも、その子一代にては、とても第一・・・ 福沢諭吉 「徳育如何」
・・・五十七のとき蝦夷開拓論をした。六十三のとき藩主に願って隠居した。井伊閣老が桜田見附で遭難せられ、景山公が亡くなられた年である。 家は五十一のとき隼町に移り、翌年火災に遭って、焼け残りの土蔵や建具を売り払って番町に移り、五十九のとき麹町善・・・ 森鴎外 「安井夫人」
出典:青空文庫