・・・ そこで胸を静めてじっと腹を落着けて考えるに、私が傍に居ては気を取られてよくあるめえ、直ぐにこれから仕事に出て、蝸牛の殻をあけるだ。可しか、桟敷は一日貸切だぜ。」 十五「起きようと寝ようと勝手次第、お飯を食べ・・・ 泉鏡花 「葛飾砂子」
・・・桃、栗、柿、大得意で、烏や鳶は、むしゃむしゃと裂いて鱠だし、蝸牛虫やなめくじは刺身に扱う。春は若草、薺、茅花、つくつくしのお精進……蕪を噛る。牛蒡、人参は縦に啣える。 この、秋はまたいつも、食通大得意、というものは、木の実時なり、実り頃・・・ 泉鏡花 「茸の舞姫」
・・・何の蝸牛みたような住居だ、この中に踏み込んで、罷り違えば、殻を背負っても逃げられると、高を括って度胸が坐ったのでありますから、威勢よく突立って凜々とした大音声。「お頼み申す、お頼み申す! お頼み申す」 と続けざまに声を懸けたが、内は・・・ 泉鏡花 「湯女の魂」
・・・ 有体に言うと今の文人の多くは各々蝸牛の殻を守るに汲々として互いに相褒め合ったり罵り合ったりして聊かの小問題を一大事として鎬を削ってる。毎日の新聞、毎月の雑誌に論難攻撃は絶えた事は無いが、尽く皆文人対文人の問題――主張対主張の問題では無・・・ 内田魯庵 「二十五年間の文人の社会的地位の進歩」
・・・ 蝸牛を掌にのせ、腕を這わせ、肩から胸へ、じめじめとした感触を愉しんだ。 また、銭湯で水を浴びるのを好んだ。湯気のふきでている裸にざあッと水が降りかかって、ピチピチと弾みきった肢態が妖しく顫えながら、すくッと立った。官能がうずくのだ・・・ 織田作之助 「雨」
・・・佐伯はそのなかに蝸牛のように住みついていたのである。その部屋はアパートの裏口からはいったかかりにあって、食堂の炊事場と隣り合っていた。床下はどうやらその炊事場の地下室になっているらしく、漬物槽が置かれ、変な臭いが騰ってきてたまらぬと佐伯は言・・・ 織田作之助 「道」
・・・「君の部屋は仏蘭西の蝸牛の匂いがするね」 喬のところへやって来たある友人はそんなことを言った。またある一人は「君はどこに住んでも直ぐその部屋を陰鬱にしてしまうんだな」と言った。 いつも紅茶の滓が溜っているピクニック用の湯沸器・・・ 梶井基次郎 「ある心の風景」
・・・中に破れて繕ったのもあるが、それが却って一段の趣味を増しているようだと云うたら子規も同意した。巧みに古色が付けてあるからどうしても数百年前のものとしか見えぬ。中に蝸牛を這わして「角ふりわけよ」の句が刻してあるのなどはずいぶん面白い。絵とちが・・・ 寺田寅彦 「根岸庵を訪う記」
・・・ 吉田の老い衰えた母は、蝸牛のように固くなって、耳に指で栓をして、息を殺していた。 ひどい急坂を上る機関車のような、重苦しい骨の折れる時間が経った。 毎朝、五時か五時半には必ず寄る事になっている依田は、六時になるに未だ来なかった・・・ 葉山嘉樹 「生爪を剥ぐ」
・・・その後には、蝸牛が這いまわった後のように、彼の内臓から吐き出された、糊のような汚物が振り撒かれた。 彼は、自分から動く火吹き達磨のように、のたうちまわった挙句、船首の三角形をした、倉庫へ降りる格子床の上へ行きついた。そして静かになった。・・・ 葉山嘉樹 「労働者の居ない船」
出典:青空文庫