・・・ 床近く蟋蟀が鳴いていた。苦痛に悶えながら、「あ、蟋蟀が鳴いている……」とかれは思った。その哀切な虫の調べがなんだか全身に沁み入るように覚えた。 疼痛、疼痛、かれはさらに輾転反側した。 「苦しい! 苦しい! 苦しい!」 ・・・ 田山花袋 「一兵卒」
・・・を想い出してみると、暗いランプに照らされた煤けた台所で寒竹の皮を剥いている寒そうな母の姿や、茶の間で糸車を廻わしている白髪の祖母の袖無羽織の姿が浮び、そうして井戸端から高らかに響いて来る身に沁むような蟋蟀の声を聞く想いがするのである。寝床で・・・ 寺田寅彦 「重兵衛さんの一家」
・・・女車掌が蟋蟀のような声で左右の勝景を紹介し、盗人厩の昔話を暗誦する。一とくさり述べ終ると安心して向うをむいて鼻をほじくっているのが憐れであった。十国峠の無線塔へぞろぞろと階段を上って行く人の群は何となく長閑に見えた。 熱海へ下る九十九折・・・ 寺田寅彦 「箱根熱海バス紀行」
・・・ 某百貨店でトリルダインと称する機械を買って来て据付けた最初の日の夕食時に聞いたのは、伴奏入りの童話で「蟻と蟋蟀」の話であった。食糧を貯蔵しなかった怠け者の蟋蟀が木枯しの夜に死んで行くというのが大団円であったが、擬音の淋しい風音に交じっ・・・ 寺田寅彦 「ラジオ雑感」
・・・何だ、さッきから二階の櫺子から覗いたり、店の格子に蟋蟀をきめたりしていたくせに」と、西宮は吉里の顔を見て笑ッている。 吉里はわざとつんとして、「あんまり馬鹿におしなさんなよ。そりゃ昔のことですのさ」「そう諦めててくれりゃア、私も大助・・・ 広津柳浪 「今戸心中」
・・・俺を見ろ、大きいぞ、素晴らしく美くしいぞ、如何うだ此の光る金色を見て羨しくないかハハハ其にお前なんかは蟋蟀ほどの音も出せないじゃあないか、まあまあ俺の見事な声を聞いてから目を廻さない要心をしているが好い」 其処へ折よく撥を持った主人の子・・・ 宮本百合子 「一粒の粟」
・・・どこか近くで鳴く蟋蟀の声が、笛の音にまじって聞こえる。甘利は瞼が重くなった。 たちまち笛の音がとぎれた。「申し。お寒うはござりませぬか」笛を置いた若衆の左の手が、仰向けになっている甘利の左の胸を軽く押えた。ちょうど浅葱色の袷に紋の染め抜・・・ 森鴎外 「佐橋甚五郎」
出典:青空文庫