・・・ 丘のふもとに、雪に埋れた広い街道がある。雪は橇や靴に踏みつけられて、固く凍っている。そこへ行くまでに、聯隊の鉄条網が張りめぐらされてあった。彼は、毎晩、その下をくぐりぬけ、氷で辷りそうな道を横切って、ある窓の下に立ったのであった。・・・ 黒島伝治 「渦巻ける烏の群」
・・・というところがあるが、それで行止りになってしまうのだから、それから先はもうどこへも行きようは無いので、川を渡って東岸に出たところが、やはり川下へ下るか、川浦という村から無理に東の方へ一ト山越して甲州裏街道へと出るかの外には路も無いのだから、・・・ 幸田露伴 「雁坂越」
・・・旧い街道の跡が一筋目につくところまで進んで行くと、そこはもう私の郷里の入り口だ。途中で私は森さんという人の出迎えに来てくれるのにあった。森さんは太郎より七八歳ほども年長な友だちで、太郎が四年の農事見習いから新築の家の工事まで、ほとんどいっさ・・・ 島崎藤村 「嵐」
・・・ゆるい勾配が、麓の街道までもかず枝のからだをころがして行くように思われ、嘉七も無理に自分のからだをころがしてそのあとを追った。一本の杉の木にさえぎ止められ、かず枝は、その幹にまつわりついて、「おばさん、寒いよう。火燵もって来てよう。」と・・・ 太宰治 「姥捨」
・・・ 街道には久しく村落がないが、西方には楊樹のやや暗い繁茂がいたるところにかたまって、その間からちらちら白色褐色の民家が見える。人の影はあたりを見まわしてもないが、青い細い炊煙は糸のように淋しく立ちがる。 夕日は物の影をすべて長く曳く・・・ 田山花袋 「一兵卒」
・・・青梅街道を志して自分で地図を見ながら、地理を知らぬ運転手を案内して進行したが、どこまで行ってもなかなか田舎らしい田舎へ出られないのに驚いた。杉並区のはずれでやっとともかくも東京を抜け出すまでが容易でなかった。この町はずれで巡査に呼止められて・・・ 寺田寅彦 「異質触媒作用」
僕は武蔵野の片隅に住んでいる。東京へ出るたびに、青山方角へ往くとすれば、必ず世田ヶ谷を通る。僕の家から約一里程行くと、街道の南手に赤松のばらばらと生えたところが見える。これは豪徳寺――井伊掃部頭直弼の墓で名高い寺である。豪・・・ 徳冨蘆花 「謀叛論(草稿)」
・・・ 線路の片側は千葉街道までつづいているらしい畠。片側は人の歩むだけの小径を残して、農家の生垣が柾木や槙、また木槿や南天燭の茂りをつらねている。夏冬ともに人の声よりも小鳥の囀る声が耳立つかと思われる。 生垣の間に荷車の通れる道がある。・・・ 永井荷風 「葛飾土産」
・・・ 右はシャロットへの本街道、十五哩は確かにあろう」これも老人の説明である。「そのシャロットの方へ――後より呼ぶわれを顧みもせで轡を鳴らして去る。やむなくてわれも従う。不思議なるはわが馬を振り向けんとしたる時、前足を躍らしてあやしくも嘶け・・・ 夏目漱石 「薤露行」
・・・で、彼はとっさの間に、グラウンドに沿うて木柵によって仕切られている街道まで腹這いになって進んだ。 街道に出ると、彼は木柵を盾にして、グラウンドの灰色の景色をながめた。その時にはもう深谷の姿は見えなかった。彼は茫然として立ちつくした。なぜ・・・ 葉山嘉樹 「死屍を食う男」
出典:青空文庫