・・・ 風呂場を出ると、ひやりと吹く秋風が、袖口からすうと這入って、素肌を臍のあたりまで吹き抜けた。出臍の圭さんは、はっくしょうと大きな苦沙弥を無遠慮にやる。上がり口に白芙蓉が五六輪、夕暮の秋を淋しく咲いている。見上げる向では阿蘇の山がごうう・・・ 夏目漱石 「二百十日」
・・・ガウンの袖口には黄色い平打の紐が、ぐるりと縫い廻してあった。これは装飾のためとも見られるし、または袖口を括る用意とも受取れた。ただし先生には全く両様の意義を失った紐に過ぎなかった。先生が教場で興に乗じて自分の面白いと思う問題を講じ出すと、殆・・・ 夏目漱石 「博士問題とマードック先生と余」
・・・ 窓の鉄棒を袖口を添えて両手に握り、夢現の界に汽車を見送ッていた吉里は、すでに煙が見えなくなッても、なお瞬きもせずに見送ッていた。「ああ、もう行ッてしまッた」と、呟やくように言ッた吉里の声は顫えた。 まだ温気を含まぬ朝風は頬には・・・ 広津柳浪 「今戸心中」
・・・陳氏はすっかり黒の支度をして、袖口と沓だけ、まばゆいくらいまっ白に、髪は昨日の通りでしたが、支那の勲章を一つつけていました。 それから助手の子供らは、まるで絵にある唐児です。あたまをまん中だけ残して、くりくり剃って、恭しく両手を拱いて、・・・ 宮沢賢治 「ビジテリアン大祭」
・・・ 久々で会う主婦から、うすきたないシャツの袖口を見られたくなかった。 金を出してもらいに来ながら、下らない見栄をすると自分でも思ったけれ共、どんな人間でも持って居る「しゃれ気」がそうさせないでは置かなかった。 自分の前に座った此・・・ 宮本百合子 「栄蔵の死」
・・・それからスルスルと行くさきざきにむずかゆい感じを起させながら胸を這って袖口から出た。それを女がつかまえて自分のひざにのせた。 くもに這われて居る間男は又とないだろうと思われるほどの快い気持になって居た。 だまって目をつぶってクモに這・・・ 宮本百合子 「お女郎蜘蛛」
・・・のどのつまった、袖口の広い服を裾長に、イエニーはカールの肩に手をかけて立っている。片手をすんなりと厚い絹地の服のひだの間にたれ、質素なひだ飾りが二すじほど付いているなりのイエニーの顔は、若い信頼にみちた妻の誠実さと、根本の平安にみちた表情を・・・ 宮本百合子 「カール・マルクスとその夫人」
・・・ 不図彼女が箸を持って居る袖口に目が行った。私は変な、不快を覚えた。単衣の下に見えて居るレースが、私共の肌襦袢について居るのとそっくりに見える。訝しく、襟元を見ると、あたりまえに襟をつけず、深くくって細い白羽二重の縁がとってある。私共は・・・ 宮本百合子 「木蔭の椽」
・・・襦袢の袖にしている水浅葱のめりんすが、一寸位袖口から覗いている。 石田は翌日島村を口入屋へ遣って、下女を取り替えることを言い付けさせた。今度は十六ばかりの小柄で目のくりくりしたのが来た。気性もはきはきしているらしい。これが石田の気に入っ・・・ 森鴎外 「鶏」
・・・と笑って袖口で鼻と口とを撫でた。「吉を酒やの小僧にやると好いわ。」 姉がそういうと、父と兄は大きな声で笑った。 その夜である。吉は真暗な涯のない野の中で、口が耳まで裂けた大きな顔に笑われた。その顔は何処か正月に見た獅子舞いの獅子・・・ 横光利一 「笑われた子」
出典:青空文庫