・・・そうしてその裂け目からは、言句に絶した万道の霞光が、洪水のように漲り出した。 オルガンティノは叫ぼうとした。が、舌は動かなかった。オルガンティノは逃げようとした。が、足も動かなかった。彼はただ大光明のために、烈しく眩暈が起るのを感じた。・・・ 芥川竜之介 「神神の微笑」
・・・このときの思い出だけは、霞が三角形の裂け目を作って、そこから白昼の透明な空がだいじな肌を覗かせているようにそんな案配にはっきりしている。祖母は顔もからだも小さかった。髪のかたちも小さかった。胡麻粒ほどの桜の花弁を一ぱいに散らした縮緬の着物を・・・ 太宰治 「玩具」
・・・そう言いながらラプンツェルは壁の裂け目からぴかぴか光る長いナイフを取り出して、それでもって鹿の頸をなで廻しました。可哀そうに、鹿は、せつながって身をくねらせ、油汗を流しました。ラプンツェルは、その様を見て大声で笑いました。「君は寝る時も・・・ 太宰治 「ろまん燈籠」
・・・しかもその一本一本の末は丸く平たい蛇の頭となってその裂け目から消えんとしては燃ゆる如き舌を出している。毛と云う毛は悉く蛇で、その蛇は悉く首を擡げて舌を吐いて縺るるのも、捻じ合うのも、攀じあがるのも、にじり出るのも見らるる。五寸の円の内部に獰・・・ 夏目漱石 「幻影の盾」
・・・見るとそこはきれいな泉になっていて粘板岩の裂け目から水があくまで溢れていた。(一寸おたずねいたしますが、この辺に宿屋 浴衣を着た髪の白い老人であった。その着こなしも風采も恩給でもとっている古い役人という風だった。蕗を泉に浸していたの・・・ 宮沢賢治 「泉ある家」
・・・ とうとう薄い鋼の空に、ピチリと裂罅がはいって、まっ二つに開き、その裂け目から、あやしい長い腕がたくさんぶら下って、烏を握んで空の天井の向う側へ持って行こうとします。烏の義勇艦隊はもう総掛りです。みんな急いで黒い股引をはいて一生けん命宙・・・ 宮沢賢治 「烏の北斗七星」
・・・岩石の裂け目に沿って赤く色が変っているでしょう。裂け目のないところにも赤い条の通っているところがあるでしょう。この裂け目を温泉が通ったのです。温泉の作用で岩が赤くなったのです。ここがずうっとつちの底だったときですよ。わかりますか。〕だま・・・ 宮沢賢治 「台川」
・・・――何か、云うに云われぬ作家藤村の人間的面、裂け目がここにあることを感じた。私は「父上様」という文章の中に、偶然藤村氏の息子として生れ事毎に父との連関で観られなければならない一青年蓊助の語りつくされない錯綜した激しい感情をよみとった。ここに・・・ 宮本百合子 「鴎外・漱石・藤村など」
・・・月が――円い銀色の月が同じ速さでスーっと雲の裂け目や真黒ななかや、もっと薄い、月が白くほの見えるところなどを遊行して居るように思う。自分も一緒にすーすーと。下へすーすーゆくようなのに決して地面近くはならない。やっぱり高い高い空にある。変な、・・・ 宮本百合子 「一九二五年より一九二七年一月まで」
・・・或る厳冬、マクシムを誘ってこの義兄弟どもは池へ出かけ、スケートと見せかけて、氷の裂け目からマクシムを水の中へ突落した。マクシムは氷のふちへ手をかけて浮き上ろうとする。ミハイロとヤーコブとは、ここぞとばかりその手の指を踵で踏みたくる。 マ・・・ 宮本百合子 「マクシム・ゴーリキイの伝記」
出典:青空文庫