・・・が、ちょっと裏返して見ると、鳥膚になった頬の皮はもじゃもじゃした揉み上げを残している。――と云う空想をしたこともあった。尤も実際口へ入れて見たら、予期通り一杯やれるかどうか、その辺は頗る疑問である。多分はいくら香料をかけても、揉み上げにしみ・・・ 芥川竜之介 「格さんと食慾」
・・・ が、おかしな売方、一頭々々を、あの鰭の黄ばんだ、黒斑なのを、ずぼんと裏返しに、どろりと脂ぎって、ぬらぬらと白い腹を仰向けて並べて置く。 もしただ二つ並ぼうものなら、切落して生々しい女の乳房だ。……しかも真中に、ズキリと庖丁目を入れ・・・ 泉鏡花 「茸の舞姫」
・・・ あわてて、あちこちポケットを……裏返しにまでしてみたが、ない。「おかしい。落したのかな」 まさか掏られたとは思えなかった。「チケットを落したんですが……」 と、小沢はもう探すことは諦めて、係員に言った。「――チケッ・・・ 織田作之助 「夜光虫」
・・・喬は満足に物が言えず、小婢の降りて行ったあとで、そんなすぐに手の裏返したようになれるかい、と思うのだった。 女はなかなか来なかった。喬は屈託した気持で、思いついたまま、勝手を知ったこの家の火の見へ上って行こうと思った。 朽ちかけた梯・・・ 梶井基次郎 「ある心の風景」
・・・ 私はもう一度、自分の手を裏返しにして、鏡でも見るようにつくづくと見た。「自分の手のひらはまだ紅い。」 と、ひとり思い直した。 午後のいい時を見て、私たちは茶の間の外にある縁側に集まった。そこには私の意匠した縁台が、縁側と同・・・ 島崎藤村 「嵐」
・・・木炭紙を裏返してみると、父の字で、女はやさしくあれ、人間は弱いものをいじめてはいけません、と小さく隅に書かれていた。はっ、と思った。 そうして、父は、消えるようにいなくなった。画の勉強に、東京へ逃げて行った、とも言われ、母との間に何かあ・・・ 太宰治 「火の鳥」
・・・片側は墨で片側は朱で書いてあるのを、出勤したときは黒字の方を出し、帰るときは裏返して朱字の方を出しておくのである。粗末な白木の札であるから新入りでない人の札はみんな手垢で薄黒く汚れている。ところが、人によっては姓名の第一番の文字のところだけ・・・ 寺田寅彦 「雑記帳より(2[#「2」はローマ数字、1-13-22])」
・・・一度男にだまされて、それ以来自棄半分になっているのではないかと思われるところもあったが、然し祝儀の多寡によって手の裏返して世辞をいうような賤しいところは少しもなかったので、カッフェーの給仕女としてはまず品の好い方だと思われた。 以上の観・・・ 永井荷風 「申訳」
・・・ニイチェの驚異は、一つの思想が幾つも幾つもの裏面をもち、幾度それを逆説的に裏返しても、容易に表面の絵札が現れて来ないことである。我々はニイチェを読み、考へ、漸く今、その正しい理解の底に達し得たと安心する。だがその時、もはやニイチェはそれを切・・・ 萩原朔太郎 「ニイチェに就いての雑感」
・・・つまり前に見た不思議の町は、磁石を反対に裏返した、宇宙の逆空間に実在したのであった。 この偶然の発見から、私は故意に方位を錯覚させて、しばしばこのミステリイの空間を旅行し廻った。特にまたこの旅行は、前に述べたような欠陥によって、私の目的・・・ 萩原朔太郎 「猫町」
出典:青空文庫