・・・ その内に更紗の窓掛けへ、おいおい当って来た薄曇りの西日が、この部屋の中の光線に、どんよりした赤味を加え始めた。と同時に大きな蠅が一匹、どこからここへ紛れこんだか、鈍い羽音を立てながら、ぼんやり頬杖をついた陳のまわりに、不規則な円を描き・・・ 芥川竜之介 「影」
・・・ 僕等はこんな話をしながら、しばらく縁先に佇んでいました。西日を受けたトタン屋根は波がたにぎらぎらかがやいています。そこへ庭の葉桜の枝から毛虫が一匹転げ落ちました。毛虫は薄いトタン屋根の上にかすかな音を立てたと思うと、二三度体をうねらせ・・・ 芥川竜之介 「手紙」
・・・茶店の前には花のさいた梅に、西日の光が消えかかっている。「もう日が暮れる」――彼はそう考えると、ぼんやり腰かけてもいられなかった。トロッコの車輪を蹴って見たり、一人では動かないのを承知しながらうんうんそれを押して見たり、――そんな事に気もち・・・ 芥川竜之介 「トロッコ」
・・・ 二階は天井の低い六畳で、西日のさす窓から外を見ても、瓦屋根のほかは何も見えない。その窓際の壁へよせて、更紗の布をかけた机がある。もっともこれは便宜上、仮に机と呼んで置くが、実は古色を帯びた茶ぶ台に過ぎない。その茶ぶ――机の上には、これ・・・ 芥川竜之介 「葱」
・・・ 僕は冬の西日の当った向うの松山を眺めながら、善い加減に調子を合せていた。「尤も天気の善い日には出ないそうです。一番多いのは雨のふる日だって云うんですが」「雨の降る日に濡れに来るんじゃないか?」「御常談で。……しかしレエン・・・・ 芥川竜之介 「歯車」
・・・――秋の彼岸過ぎ三時下りの、西日が薄曇った時であった。この秋の空ながら、まだ降りそうではない。桜山の背後に、薄黒い雲は流れたが、玄武寺の峰は浅葱色に晴れ渡って、石を伐り出した岩の膚が、中空に蒼白く、底に光を帯びて、月を宿していそうに見えた。・・・ 泉鏡花 「海の使者」
・・・ これから、名を由之助という小山判事は、埃も立たない秋の空は水のように澄渡って、あちらこちら蕎麦の茎の西日の色、真赤な蕃椒が一団々々ある中へ、口にしたその葉巻の紫の煙を軽く吹き乱しながら、田圃道を楽しそう。 その胸の中もまた察すべき・・・ 泉鏡花 「政談十二社」
・・・――ああ西日が当ると思ったら、向うの蕃椒か。慌てている。が雨は霽った。」 提灯なしに――二人は、歩行き出した。お町の顔の利くことは、いつの間にか、蓮根の中へ寄掛けて、傘が二本立掛けてあるのを振返って見たので知れる。「……あすこに人が・・・ 泉鏡花 「古狢」
・・・ 土地の名物白絣の上布に、お母さんのお古だという藍鼠の緞子の帯は大へん似合っていた。西日をよけた番神堂の裏に丁度腰掛茶屋に外の人も居ず、三人は緩り腰を掛けて海を眺めた。風が変ってか海が晴れてくる。佐渡が島が鮮かに見えてきた。佐渡が見える・・・ 伊藤左千夫 「浜菊」
・・・ 窓に西日が当っているのに気がついたので、道子は立ってカーテンを引いた。そしてふと振りむくと、喜美子は「ああ。」とかすかに言って、そのまま息絶えていた。 姉の葬式を済ませて、三日目の朝のことだった。この四五日手にとってみることもなく・・・ 織田作之助 「旅への誘い」
出典:青空文庫