・・・乾いた西風の烈しい時は其煤がはらはらと落ちる。鼠のためには屈竟な住居である。それでも春から秋の間は蛇が梁木を渡るので鼠が比較的少ない。蛇は時とすると煤けた屋根裏に白い体を現わして鼠を狙って居ることがある。そうした後には鼠は四五日ひっそりする・・・ 長塚節 「太十と其犬」
・・・裏の窓より見渡せば見ゆるものは茂る葉の木株、碧りなる野原、及びその間に点綴する勾配の急なる赤き屋根のみ。西風の吹くこの頃の眺めはいと晴れやかに心地よし。 余は茂る葉を見ようと思い、青き野を眺めようと思うて実は裏の窓から首を出したのである・・・ 夏目漱石 「カーライル博物館」
・・・肉は焼き骨は粉にして西風の強く吹く日大空に向って撒き散らしてもらおうなどといらざる取越苦労をする。 題辞の書体は固より一様でない。あるものは閑に任せて叮嚀な楷書を用い、あるものは心急ぎてか口惜し紛れかがりがりと壁を掻いて擲り書きに彫りつ・・・ 夏目漱石 「倫敦塔」
・・・なぜならこれからちょうど小さな根がでるころなのに西風はまだまだ吹くから幹がてこになってそれを切るのだ。けれども菊池先生はみんな除らせた。花が咲くのに支柱があっては見っともないと云うのだけれども桜が咲くにはまだ一月もその余もある。菊池先生は春・・・ 宮沢賢治 「或る農学生の日誌」
・・・あの途中のさびしかったことね、僕はたった一人になっていたもんだから、雲は大へんきれいだったし邪魔もあんまりなかったけれどもほんとうにさびしかったねえ、朝鮮から僕は又東の方へ西風に送られて行ったんだ。海の中ばかりあるいたよ。商船の甲板でシガア・・・ 宮沢賢治 「風野又三郎」
・・・ その間に本線のシグナル柱が、そっと西風にたのんでこう言いました。「どうか気にかけないでください。こいつはもうまるで野蛮なんです。礼式も何も知らないのです。実際私はいつでも困ってるんですよ」 軽便鉄道のシグナレスは、まるでどぎま・・・ 宮沢賢治 「シグナルとシグナレス」
ホロタイタネリは、小屋の出口で、でまかせのうたをうたいながら、何か細かくむしったものを、ばたばたばたばた、棒で叩いて居りました。「山のうえから、青い藤蔓とってきた …西風ゴスケに北風カスケ… 崖のうえから、赤・・・ 宮沢賢治 「タネリはたしかにいちにち噛んでいたようだった」
・・・そしたら西風がね、だまって持って行って呉れたよ。」「そうかい。ハッハ。まあいいよ。あの雲はあしたの朝はもう霽れてるよ。ヒームカさんがまばゆい新らしい碧いきものを着てお日さまの出るころは、きっと一番さきにお前にあいさつするぜ。そいつはもう・・・ 宮沢賢治 「楢ノ木大学士の野宿」
・・・ すると向うで、「北風ぴいぴい風三郎、西風どうどう又三郎」と細いいい声がしました。 狐の子の紺三郎がいかにもばかにしたように、口を尖らして云いました。「あれは鹿の子です。あいつは臆病ですからとてもこっちへ来そうにありません。・・・ 宮沢賢治 「雪渡り」
・・・午後五時いまだ淡雪の消えかねた砂丘の此方部屋を借りる私の窓辺には錯綜する夜と昼との影の裡に伊太利亜焼の花壺タランテラを打つ古代女神模様の上に伝説のナーシサスは純白の花弁を西風にそよがせほのかに わが幻想を誘・・・ 宮本百合子 「海辺小曲(一九二三年二月――)」
出典:青空文庫