・・・反対の方向から黒い覆面をした男が来る。うす暗がり。AとB そこにいるのは誰だ。男 お前たちだって己の声をきき忘れはしないだろう。AとB 誰だ。男 己は死だ。AとB 死?男 そんなに驚くことはない。己は昔もいた。今・・・ 芥川竜之介 「青年と死」
・・・の後には、黒い紗の覆面をした人が一人、人形を持って立っている。 いよいよ、狂言が始まったのであろう。僕は、会釈をしながら、ほかの客の間を通って、前に坐っていた所へ来て坐った。Kと日本服を来た英吉利人との間である。 舞台の人形は、藍色・・・ 芥川竜之介 「野呂松人形」
・・・(咽喉に巻いたる古手拭を伸して、覆面す――さながら猿轡のごとくおのが口をば結う。この心は、美女に対して、熟柿臭きを憚るなり。人形の竹を高く引えい。夫人、樹立の蔭より、半ば出でてこの体を窺いつつあり。人形使 えい。えい。夫・・・ 泉鏡花 「山吹」
・・・が、少年の筆らしくない該博の識見に驚嘆した読売の編輯局は必ずや世に聞ゆる知名の学者の覆面か、あるいは隠れたる篤学であろうと想像し、敬意を表しかたがた今後の寄書をも仰ぐべく特に社員を鴎外の仮寓に伺候せしめた。ところが社員は恐る恐る刺を通じて早・・・ 内田魯庵 「鴎外博士の追憶」
・・・女は痩せて丈が高くて黒い覆面をしていた。この町の小供等は、二人の西洋人の後方についてぞろぞろと歩いていた。斯様に、子供等がうるさくついたら、西洋人も散歩にならぬだろうと思われた。山国の渋温泉には、西洋人はよく来るであろう。けれど其れは盛夏の・・・ 小川未明 「渋温泉の秋」
・・・その完成の日には、私も覆面をとって私の住所姓名を明らかにして、貴下とお逢いしたいと思いますが、ただ今は、はるかに声援をお送りするだけで止そうと思います。お断りして置きますが、これはファン・レタアではございませぬ。奥様なぞにお見せして、おれに・・・ 太宰治 「恥」
・・・とかなり正面から哀切にゆき、身代りがあわてふためき覆面をかなぐりすて、「やつがれは六十路を越したる爺にて候」と、平伏し逃げかけるところで、復讐さえしそこなった小町の絶望困惑身を置くところも知らない爺とに、悲哀の籠った滑稽を味わせるも・・・ 宮本百合子 「気むずかしやの見物」
・・・夜がふけてから侍分のものが一人覆面して、塀をうちから乗り越えて出たが、廻役の佐分利嘉左衛門が組の足軽丸山三之丞が討ち取った。そののち夜明けまで何事もなかった。 かねて近隣のものには沙汰があった。たとい当番たりとも在宿して火の用心を怠らぬ・・・ 森鴎外 「阿部一族」
出典:青空文庫