・・・ 夕方であったのが、夜になって、的の黒白の輪が一つの灰色に見えるようになった時、女はようよう稽古を止めた。今まで逢ったこともないこの男が、女のためには古い親友のように思われた。「この位稽古しましたら、そろそろ人間の猟をしに出掛けられ・・・ 著:オイレンベルクヘルベルト 訳:森鴎外 「女の決闘」
・・・それとも、今夜は、特にさえて見えるのだろうか。 彼女は、無意識のうちに、「私の生まれた、北国では、とても星の光が強く、青く見えてよ。」といった、若い上野先生の言葉が記憶に残っていて、そして、いつのまにか、その好きだった先生のことを思い出・・・ 小川未明 「青い星の国へ」
・・・水ぎわには昼でも淡く水蒸気が見えるが、そのくせ向河岸の屋根でも壁でも濃くはっきりと目に映る。どうしてももう秋も末だ、冬空に近い。私は袷の襟を堅く合せた。「ねえ君、二三日待ちなせえよ。きっと送るから。」と船に乗り移る間ぎわにも、銭占屋はそ・・・ 小栗風葉 「世間師」
・・・た、私はその音に不図何心なく眼が覚めて、一寸寝返りをして横を見ると、呀と吃驚した、自分の直ぐ枕許に、痩躯な膝を台洋燈の傍に出して、黙って座ってる女が居る、鼠地の縞物のお召縮緬の着物の色合摸様まで歴々と見えるのだ、がしかし今時分、こんなところ・・・ 小山内薫 「女の膝」
・・・へは行かず、すぐ坂を降りましたが、その降りて行く道は、灯明の灯が道から見える寺があったり、そしてその寺の白壁があったり、曲り角の間から生国魂神社の北門が見えたり、入口に地蔵を祠っている路地があったり、金灯籠を売る店があったり、稲荷を祠る時の・・・ 織田作之助 「アド・バルーン」
・・・シュッシュッという弾丸の中を落来る小枝をかなぐりかなぐり、山査子の株を縫うように進むのであったが、弾丸は段々烈しくなって、森の前方に何やら赤いものが隠現見える。第一中隊のシードロフという未だ生若い兵が此方の戦線へ紛込でいるから如何してだろう・・・ 著:ガールシンフセヴォロド・ミハイロヴィチ 訳:二葉亭四迷 「四日間」
・・・彼は玄関へ入るなり、まず敷台の隅の洋傘やステッキの沢山差してある瀬戸物の筒に眼をつける――Kの握り太の籐のステッキが見える――と彼は案内を乞うのも気が引けるので、こそ/\と二階のKの室へあがって行く。……「……K君――」「どうぞ……・・・ 葛西善蔵 「子をつれて」
・・・医師が見える度に問答が始まります。「先生、あなたは暖かくなれば楽になると言われましたが本当ですか。脚が腫れたらもう駄目ではないのでしょうか」「いいえ、そんなことはありません。これから暖くなるのです。今に楽になりますよ、成る丈け安静に・・・ 梶井久 「臨終まで」
・・・しかしこういうことにはきりがないと見える。この頃、私はまた別なことを空想しはじめている。 それは、猫の爪をみんな切ってしまうのである。猫はどうなるだろう? おそらく彼は死んでしまうのではなかろうか? いつものように、彼は木登りをしよ・・・ 梶井基次郎 「愛撫」
・・・んずんと乳の辺りまで出ずるを吉次は見て懐に入れし鼈甲の櫛二板紙に包んだままをそっと袂に入れ換えて手早く衣服を脱ぎ、そう沖へ出ないがいいと言い言い二人のそばまで行けば『吉さんごらんよ、そら足の爪まで見えるから』とお常が言うに吉次『もう・・・ 国木田独歩 「置土産」
出典:青空文庫