・・・棒が倒れるとそれを飛び越えて見向きもしないで知らん顔をしてのそのそと三四尺も歩いて行ってちょこんとすわる。そういう事をなんべんとなく繰り返すのである。どういう心持ちであるのか全く見当がつかない。 二階に籐椅子が一つ置いてある。その四本の・・・ 寺田寅彦 「ねずみと猫」
・・・この腰掛で若い者が踊子と戯れ騒ぐのさえ、爺さんは見馴れているせいか、何が面白いのだと言わぬばかりの顔附で見向きもしなかった。 寒くなると、爺さんは下駄棚のかげになった狭い通路の壁際で股火をしながら居睡をしているので、外からも、内からも、・・・ 永井荷風 「草紅葉」
・・・唖々子は英語の外に独逸語にも通じていたが、晩年には専漢文の書にのみ親しみ、現時文壇の新作等には見向きだもせず、常にその言文一致の陋なることを憤っていた。 わたしは抽斎伝の興味を説き、伝中に現れ来る蕩子のわれらがむかしに似ていることを語っ・・・ 永井荷風 「梅雨晴」
・・・無論大した怪我ではないと合点して、車掌は見向きもせず、曲り角の大厄難、後の綱のはずれかかるのを一生懸命に引直す。車は八重に重る線路の上をガタガタと行悩んで、定めの停留場に着くと、其処に待っている一団の群集。中には大きな荷物を脊負った商人も二・・・ 永井荷風 「深川の唄」
・・・ 吉里は一語も発わぬ。見向きもせぬ。やはり箪笥にもたれたまま考えている。「そうしていらッしゃるうちに、お顔を洗ッていらッしゃいまし。その間にお掃除をして、じきにお酒にするようにしておきますよ。花魁、お連れ申して下さい。はい」と、お熊・・・ 広津柳浪 「今戸心中」
・・・ お金が口の中で、何かしきりにブツクサ云って居るのに見向きもしないで、お君の枕元へ行った。「お帰り。 お寒おしたろ。 又、義母はんが、何か、やな事云うてやな、 ほんにあかん。 栄蔵は、娘の言葉が、胸の中に・・・ 宮本百合子 「栄蔵の死」
・・・けれども、絶間ない通交人は、誰一人この小さい花売娘に見向きもしないで通りすぎる。それでも、未だ彼女は、 輝く瓦斯燈の下で 呼びながら立っている 私の奇麗な花を買って頂戴な と。 深い夕靄の空に広告塔の飾光がつややかに燦・・・ 宮本百合子 「小景」
・・・ 女は、見向きもせず歩いて行く。 コムソールが、羊皮外套をきて、二人来た。その外国の女を見て「из 上海」 その時大きナ菓子屋の軒先にパッと百燭の電燈がともった。 中央電信局の建築場では、労働者と荷橇馬が出切った木戸・・・ 宮本百合子 「一九二七年八月より」
・・・ 思いきって威張ってほこり顔な美くしさも時にはまたなく美くしいものだけれ共、ぶなの輝きが少しでも高ぶった気持をもって居たら私はきっと見向きもしなかっただろうに―― 私は幸にもぶなの木魂が謙譲のゆかしさを知って居て呉れた事を心からうれ・・・ 宮本百合子 「旅へ出て」
・・・ お霜は差し出された丸帯を見向きもせず、「いまに思いしらせてやるわ、覚えてよ。」とまた云った。 秋三は「帰ね帰ね」と云うとそのまま奥庭の方へ行きかけた。「何を云うのや! 姉やん、あんな奴に相手にならんと、まア一寸此の帯を見や・・・ 横光利一 「南北」
出典:青空文庫