・・・はじめのうちは、往来のあとさきを見廻して、だれもいないのを見とどけてから、こんにゃはァ、と小さい声で、そッと呟やいたものだった。しかしだれもいないところでふれたって売れる道理はないのだから、やっぱりみんなの見ているところで怒鳴れるように修業・・・ 徳永直 「こんにゃく売り」
・・・ 車から降りて、わたくしはあたりを見廻した。道は同じようにうねうねしていて、行先はわからない。やはり食料品、雑貨店などの中で、薬屋が多く、次は下駄屋と水菓子屋が目につく。 左側に玉の井館という寄席があって、浪花節語りの名を染めた幟が・・・ 永井荷風 「寺じまの記」
・・・例の四角な平地を見廻して見ると木らしい木、草らしい草は少しも見えぬ。婆さんの話しによると昔は桜もあった、葡萄もあった。胡桃もあったそうだ。カーライルの細君はある年二十五銭ばかりの胡桃を得たそうだ。婆さん云う「庭の東南の隅を去る五尺余の地下に・・・ 夏目漱石 「カーライル博物館」
・・・そして周りを見回した。ちょうど犬がするように少し顎を持ち上げて、高鼻を嗅いだ。 名状しがたい表情が彼の顔を横切った。とまるで、恋人の腕にキッスでもするように、屍の腕へ口を持って行った。 彼は、うまそうにそれを食い始めた。 もし安・・・ 葉山嘉樹 「死屍を食う男」
・・・廊下の障子を開けて左右を見廻し、障子を閉めて上の間の窓の傍に立ち止ッて、また耳を澄ました。 上野の汽笛が遠くへ消えてしまッた時、口笛にしても低いほどの口笛が、調子を取ッて三声ばかり聞えると、吉里はそっと窓を開けて、次の間を見返ッた。手は・・・ 広津柳浪 「今戸心中」
・・・オオビュルナンはどこかにベルがありそうなものだと、壁を見廻した。 この時下女が客間に来た。頬っぺたが前に見た時より赤くなっていて、表情が前に見た時より馬鹿らしく見えている。そして黙って戸の際に立っている。 客の詞には押え切れない肝癪・・・ 著:プレヴォーマルセル 訳:森鴎外 「田舎」
・・・そして両側の提灯に眼を奪われてあちこちと見廻して居るので度々石につまずいて転ぼうとするのを母に扶けられるという事でありたかった。そして遂には何か買うてくれとねだりはじめて、とうとうねだりおおせてその辺の菓子屋へはいるという事でありたかった。・・・ 正岡子規 「熊手と提灯」
・・・それを呑んだためかさっきの草の中に投げ出された木樵はやっと気がついておずおずと起きあがりしきりにあたりを見廻しました。 それから俄かに立って一目散に遁げ出しました。三つ森山の方へまるで一目散に遁げました。 土神はそれを見て又大きな声・・・ 宮沢賢治 「土神ときつね」
・・・ペーンはそのかおを眉のあたりからズーッと見廻して神秘的の美くしさに思わず身ぶるいをしてひくいながら心のこもった声で云う。ペーン マア何と云う御前は美くしい事だ。そのこまっかい肌、そのうす赤くすき通る耳たぼをもって居る御前は――世界中・・・ 宮本百合子 「葦笛(一幕)」
・・・』 市長はなおも言いたした、『お前はその手帳を拾った後で、まだ手帳から金がこぼれて落ちてはおらぬかとそこらをしばらく見回したろう。』 かあいそうに老人は、憤怒と恐怖とで呼吸をつまらした。『そんな嘘が、そんな嘘が――正直ものを・・・ 著:モーパッサン ギ・ド 訳:国木田独歩 「糸くず」
出典:青空文庫