・・・真くろい雲が充満し、空は暗くて低かった。見渡すかぎり、人の影がなかった。腐りかけた漁船がひとつ、砂浜に投げ捨てられ、ひっくりかえって、まっくろい腹を見せてあるほかには、犬ころ一匹いなかった。私は、ズボンのポケットに両手をつっこみ、同じ地点を・・・ 太宰治 「狂言の神」
・・・昨夜仙台の新聞で欠食児童何百という表題の記事を見て来たばかりの眼には、この目前見渡す限りの稲の秋は甚だそぐわない嘘のような眺めであった。豊葦原の瑞穂の国の瑞穂の波の中にいて、それでなかなか容易には米が食われないのである。どこかで何かが間違っ・・・ 寺田寅彦 「札幌まで」
・・・屋上から見渡すと、なるほど所々に棟瓦の揺り落されたのが指摘された。 停車場近くの神社で花崗石の石の鳥居が両方の柱とも見事に折れて、その折れ口が同じ傾斜角度を示して、同じ向きに折れていて、おまけに二つの折れ目の断面がほぼ同平面に近かった。・・・ 寺田寅彦 「静岡地震被害見学記」
・・・ 茅町の岸は本郷向ヶ岡の丘阜を背にし東に面して不忍池と上野の全景とを見渡す勝概の地である。然しわたくしの知人で曾てこの地に卜居した者の言う所によれば、土地陰湿にして夏は蚊多く冬は湖上に東北の風を遮るものがないので寒気甚しくして殆ど住むに・・・ 永井荷風 「上野」
・・・ 一時、わたくしの仮寓していた家の裏庭からは竹垣一重を隔て、松の林の間から諏訪田の水田を一目に見渡す。朝夕わたくしはその眺望をよろこび見るのみならず、時を定めず杖をひくことにしている。桃や梨を栽培した畠の藪垣、羊の草をはんでいる道のほと・・・ 永井荷風 「葛飾土産」
・・・ これらの条項を机の上に貼り附けるのは、学校の教師が、学校の課目全体を承知の上で、自己の受持に当るようなもので、自他の関係を明かにして、文学の全体を一目に見渡すと同時に、自己の立脚地を知るの便宜になる。今の評家はこの便宜を認めていない。・・・ 夏目漱石 「作物の批評」
・・・左側を見渡すと限りもなく広い田の稲は黄色に実りて月が明るく照して居るから、静かな中に稲穂が少しばかり揺れて居るのも見えるようだ。いい感じがした。しかし考が広くなって、つかまえ処がないから、句になろうともせぬ。そこで自分に返りて考えて見た。考・・・ 正岡子規 「句合の月」
トゥウェルスカヤ通りの角に宏壮な郵電省の建物がある。 赤い滝のように旗でかざられた正面の大石段の上に立って見渡すと、デモは今赤い広場に向って、動き出そうとしているところである。空では数台の飛行・・・ 宮本百合子 「インターナショナルとともに」
・・・ ずらっと並んだ処を見渡すと、どれもどれも好く選んで揃えたと思う程、色の蒼い痩せこけた顔ばかりである。まだ二十を越したばかりのもある。もう五十近いのもある。しかしこの食堂に這入って来るコンマ以下のお役人には、一人も脂気のある顔はない。た・・・ 森鴎外 「食堂」
・・・ふっと気がついて見ると、私たちは見渡す限り蓮の花ばかりの世界のただ中にいたのである。 蓮の花は葉よりも上へ出ている。その花が小舟の中にすわっているわれわれの胸のあたり、時には目の高さに見える。舟ばたにすれすれの花から、一尺先、二尺先、あ・・・ 和辻哲郎 「巨椋池の蓮」
出典:青空文庫