・・・は、自分のきた時分に通った道でないので、ほんとうに、故郷に帰ることができるだろうかと、不安に思われましたが、小鳥がどこまでもついていってくれるのを頼りに旅を続けられていますと、ある日のこと、お姫さまは見覚えのあるお城の森が、あちらにそびえて・・・ 小川未明 「お姫さまと乞食の女」
・・・「なんだか、見覚えのあるような松の木だな。」 彼は、子供の時分、村はずれの原っぱに立っていた、そして、その下でよく遊んだ松の木を思い出したのでした。「よく似た木もあったものだ。やはり、片方の技が折れていたっけが。」 村の松の・・・ 小川未明 「曠野」
・・・皮膚の色が女のように白く、凄いほどの美貌のその顔に見覚えがある。穴を当てる名人なのか、寺田は朝から三度もその窓口で顔を合せていたのだ。大穴の時は配当を取りに来る人もまばらで、すぐ顔見知りになる。やあ、よく取りますね、この次は何ですかと、寺田・・・ 織田作之助 「競馬」
・・・と起ち上ったが、その顔には見覚えはなく、また内部の容子が「ダイス」とはまるで違っている。あ、間違って入ったのかと、私はあわてて扉の外へ出ると、その隣の赤い灯が映っている硝子扉を押した途端、白地に黒いカルタの模様のついた薩摩上布に銀鼠色の無地・・・ 織田作之助 「世相」
・・・ あとで考えれば、それは薄菊石の顔に見覚えのある有馬という士の声らしく、乱暴者を壁に押えつけながら、この男さえ殺せば騒ぎは鎮まると、おいごと刺せ、自分の背中から二人を突き刺せ、と叫んだこの世の最後の声だったのだ。 勢いっぱいに張り上・・・ 織田作之助 「螢」
・・・農家の門を外に出てみるとはたして見覚えある往来、なるほどこれが近路だなと君は思わず微笑をもらす、その時初めて教えてくれた道のありがたさが解るだろう。 真直な路で両側とも十分に黄葉した林が四五丁も続く処に出ることがある。この路を独り静かに・・・ 国木田独歩 「武蔵野」
・・・『僕は全くの旅客でこの土地には縁もゆかりもない身だから、知る顔もなければ見覚えの禿げ頭もない。そこで何となくこれらの光景が異様な感を起こさせて、世のさまを一段鮮やかにながめるような心地がした。僕はほとんど自己をわすれてこの雑踏の中をぶら・・・ 国木田独歩 「忘れえぬ人々」
・・・ 第一、俺は見覚えの盆踊りの身振りをしながら、時々独房の中で歌い出したものだ――独房よいとオこ、誰で――もオおいで、ドッコイショ………………附記 田口の話はまだ/\沢山ある。これはそのホンの一部だ。私は又別な・・・ 小林多喜二 「独房」
・・・ずんずん歩いて行けば行くほど、何となく見覚えのある家の内だ。その廊下を曲ろうとする角のところに、大きな鋸だの、厳めしい鉄の槌だの、その他、一度見たものには忘れられないような赤く錆びた刃物の類が飾ってある壁の側あたりまで行って、おげんはハッと・・・ 島崎藤村 「ある女の生涯」
・・・「高瀬さん、この家は見覚えがありましょう――」 先生にそう言われると、高瀬にも覚えがある。高瀬は一度小諸を通って先生の住居を訪ねたことがある。形は変えられたが以前の書斎だ。「どうせ、この建物はこうしてありますから、皆さんにお貸し・・・ 島崎藤村 「岩石の間」
出典:青空文庫