・・・霜の白い朝彼は起きて屹度犬の箱を覗く。犬は小さいながら成長した。春らしい日の光が稀にはほっかり射すようになって麦がみずみずしい青さを催して来た頃犬は見違える程大きくなった。毛が赤いので赤と呼んだ。太十が出る時は赤は屹度附いて出る。附いて行く・・・ 長塚節 「太十と其犬」
・・・とエレーンは訴うる如くに下よりランスロットの顔を覗く。覗かれたる人は薄き唇を一文字に結んで、燃ゆる片袖を、右の手に半ば受けたるまま、当惑の眉を思案に刻む。ややありていう。「戦に臨む事は大小六十余度、闘技の場に登って槍を交えたる事はその数を知・・・ 夏目漱石 「薤露行」
・・・右から盾を見るときは右に向って呪い、左から盾を覗くときは左に向って呪い、正面から盾に対う敵には固より正面を見て呪う。ある時は盾の裏にかくるる持主をさえ呪いはせぬかと思わるる程怖しい。頭の毛は春夏秋冬の風に一度に吹かれた様に残りなく逆立ってい・・・ 夏目漱石 「幻影の盾」
・・・と、西宮はわざと手荒く唐紙を開け、無遠慮に屏風の中を覗くと、平田は帯を締め了ろうとするところで、吉里は後から羽織を掛け、その手を男の肩から放しにくそうに見えた。「失敬した、失敬した。さア出かけよう」「まアいいさ」「そうでない、そ・・・ 広津柳浪 「今戸心中」
・・・蕪村に至りては阿古久曽のさしぬき振ふ落花かな花に舞はで帰るさ憎し白拍子花の幕兼好を覗く女ありのごとき妖艶を極めたるものあり。そのほか春月、春水、暮春などいえる春の題を艶なる方に詠み出でたるは蕪村なり。例えば伽・・・ 正岡子規 「俳人蕪村」
・・・が、二度三度場所をかえて覗くと、勢をつけて、さっと餌壺の際に下り立った。そして、粟を散らしながらツウツウと短い暖味のある声で雌を呼び寄せるのである。 雌を驚かせて、気の毒には思うが、自分には、実に心深い見ものであった。こればかりでなく、・・・ 宮本百合子 「小鳥」
・・・彼等としては、普通に国で女の子と喋る時のように喋っているつもりであろうけれども、その栄養のよい体の楽々とした吊皮への下りようや、何か云っては娘の顔を覗く工合が、周囲の疲労し空腹な男女の群の中にあって、どうしても、独得な雰囲気をなしているので・・・ 宮本百合子 「その源」
・・・こう云って、息子の顔を横から覗くように見て、詞を続けた。「ゆうべも大層遅くまで起きていましたね。いつも同じ事を言うようですが、西洋から帰ってお出の時は、あんなに体が好かったのに、余り勉強ばかりして、段々顔色を悪くしておしまいなのね。」「・・・ 森鴎外 「かのように」
・・・暫くして、彼はソッと部屋の中を覗くと、婦人がひとり起きて来て寝巻のまま障子を開けた。「坊ちゃんはいい子ですね。あのね、小母さんはまだこれから寝なくちゃならないのよ。あちらへいってらっしゃいな。いい子ね。」 灸は婦人を見上げたまま少し・・・ 横光利一 「赤い着物」
・・・薄暗いので、念を入れて額縁の中を覗くと、肖像や画ではなくて、手紙か何かのような、書いた物である。己は足を留めて、少し立ち入ったようで悪いかとも思ったが、決心して聞いて見た。「あれはなんだね。」「判決文です。」エルリングはこう云って、・・・ 著:ランドハンス 訳:森鴎外 「冬の王」
出典:青空文庫