・・・大将アッチリウス・レグルスは、カルタゴ人に打ち勝って光栄の真中にあったのに、本国に書を送って、全体で僅か七アルペントばかりにしかならぬ自分の地処の管理を頼んでおいた小作人が、農具を奪って遁走したことを訴え、且つ、妻子が困っているといけないか・・・ 太宰治 「『井伏鱒二選集』後記」
・・・でなければ、私はこれからすぐ警察に訴えます」「何を言うんだ。失敬な事を言うな。ここは、お前たちの来るところでは無い。帰れ! 帰らなければ、僕のほうからお前たちを訴えてやる」 その時、もうひとりの男の声が出ました。「先生、いい度胸・・・ 太宰治 「ヴィヨンの妻」
・・・かに狭い範囲の題材に限られていても、その中に躍動している生きた体験から流露するあるものは、直接に読者の胸にしみ込む、そしてたとえそれが間違っている場合でさえも、書いた人の真を求める魂だけは力強く読者に訴え、読者自身の胸裏にある同じようなもの・・・ 寺田寅彦 「案内者」
・・・ 今朝も珍らしく早く起きたおひろは茶の室でお芳にさんざん不平を訴えていた。よく響くその声が、道太のうとうとしている耳にも聞こえた。お絹も寝床にいて、寝たふりで聞いていた。 道太は裏の家に大散財があったので、昨夜は夜中に寝床を下へもっ・・・ 徳田秋声 「挿話」
・・・従って小説戯曲の材料は七分まで、徳義的批判に訴えて取捨選択せられるのであります。恋を描くにローマン主義の場合では途中で、単に顔を合せたばかりで直ぐに恋情が成立ち、このために盲目になったり、跛足になったりして、煩悶懊悩するというようなことにな・・・ 夏目漱石 「教育と文芸」
・・・ ――俺が、いつ、お前等に蹴込まれるような、悪いことをしたんだ――と彼の眼は訴えていた。 下級海員たちは、何か、背中の方に居るように感じた。又、彼等は一様に、何かに性急に追いまくられてるように感じた。 彼等は、純粋な憐みと、純粋・・・ 葉山嘉樹 「労働者の居ない船」
・・・我輩は人間の天性に訴えて叶わぬことゝ断言するものなり。一 嫉妬の心努ゆめゆめ発すべからず。男婬乱なれば諫べし。怒怨べからず。妬甚しければ其気色言葉も恐敷冷して、却て夫に疏れ見限らるゝ物なり。若し夫不義過あらば我色を和らげ声を雅に・・・ 福沢諭吉 「女大学評論」
・・・きさまの店を訴えるぞ。」と云いながら、ずんずん赤くはれて行く頬を鏡で見ていました。 親方も、むかっ腹を立てて云いました。「なあに毒蛾なんか、市中到る処に居るんだ。町をあるいてさわられたら市長でも訴えたらよかろうさ。」 デストゥパ・・・ 宮沢賢治 「ポラーノの広場」
・・・ ふき子はお対手兼家政婦の岡本が引込んでいる裏座敷の方を悩ましそうに見ながら訴えた。「弱いんじゃない?」「さあ……女中と喧嘩して私帰らしていただきますなんていうの」 岡本が、蒼白い平らな顔に髪を引束ねた姿で紅茶を運んで来た。・・・ 宮本百合子 「明るい海浜」
・・・ 附き添って来たお上さんは、目の縁を赤くして、涙声で一度翁に訴えた通りを又花房に訴えた。 お上さんの内には昨夜骨牌会があった。息子さんは誰やらと札の引張合いをして勝ったのが愉快だというので、大声に笑った拍子に、顎が両方一度に脱れた。・・・ 森鴎外 「カズイスチカ」
出典:青空文庫