・・・槓でも棒でも動くものにあらず。談笑の間もなお然り。酔うて虎となれば愈然り。久保田君の主人公も、常にこの頑固さ加減を失う能わず。これ又チエホフの主人公と、面目を異にする所以なり。久保田君と君の主人公とは、撓めんと欲すれば撓むることを得れども、・・・ 芥川竜之介 「久保田万太郎氏」
・・・昔一高の校庭なる菩提樹下を逍遥しつつ、談笑して倦まざりし朝暮を思えば、懐旧の情に堪えざるもの多し。即ち改造社の嘱に応じ、立ちどころにこの文を作る。時に大正壬戌の年、黄花未だ発せざる重陽なり。・・・ 芥川竜之介 「恒藤恭氏」
・・・やや暫らくすると場内から急にくつろいだ談笑の声が起った。そして二、三人ずつ何か談り合いながら小作者らは小屋をさして帰って行った。やや遅れて伴れもなく出て来たのは佐藤だった。小さな後姿は若々しくって青年のようだった。仁右衛門は木の葉のように震・・・ 有島武郎 「カインの末裔」
・・・入口の隅のクリスマスの樹――金銀の眩い装飾、明るい電灯――その下の十いくつかのテーブルを囲んだオールバックにいろいろな色のマスクをかけた青年たち、断髪洋装の女――彼らの明るい華かな談笑の声で、部屋の中が満たされていた。自分は片隅のテーブルで・・・ 葛西善蔵 「死児を産む」
・・・始終談笑しているのが巡査と人夫で、医者はこめかみのへんを両手で押えてしゃがんでいる。けだし棺おけの来るのを皆が待っているのである。「二時の貨物車でひかれたのでしょう。」と人夫の一人が言った。「その時はまだ降っていたかね?」と巡査が煙・・・ 国木田独歩 「窮死」
・・・かれらの夜々の談笑におとなしく耳を傾けているのではあるが、どうにもやり切れない思いのすることがあった。かれには、訪問客たちの卑屈にゆがめられているエゴイズムや、刹那主義的な奇妙な虚栄を非難したい気持ちはなかった。すべては弱さから、と解してい・・・ 太宰治 「花燭」
・・・ふたり涼しげに談笑しながら食事していた。きのう、私、さいごの手段、相手もあろうに、萱野さんから、二百円、いや、拾円紙幣二十枚お借りした。資生堂二階のボックスでお逢いして、私が二百円と言いもおわらぬうちに、三度も四度もあわてて首肯き、さっと他・・・ 太宰治 「二十世紀旗手」
・・・いまに私は、諸君と一点うしろ暗いところなく談笑できるほどの男になります。それは、いつわりの無い、白々しく興覚めするほどの、生真面目なお約束なのであるが、私が、いま、このような乱暴な告白を致したのは、私は、こんな借銭未済の罪こそ犯しているが、・・・ 太宰治 「春の盗賊」
・・・ 室内を縦断する通路の自分とは反対側の食卓に若い会社員らしいのが三人、注文したうなぎどんぶりのできるのを待つ間の談笑をしている。もっぱら談話をリードしているその中の一人が何か二言三言言ったと思うと他の二人が声をそろえて爆笑する、それに誘・・・ 寺田寅彦 「三斜晶系」
・・・あの物静かな唱歌はもう聞かれなくなって、にぎやかなむしろ騒々しい談笑が客車の中に沸き上がった。小さなバスケットや信玄袋の中から取り出した残りものの塩せんべいやサンドウイッチを片付けていた生徒たちの一人が、そういうものの包み紙を細かく引き裂い・・・ 寺田寅彦 「写生紀行」
出典:青空文庫