・・・「何かまた貴方も借りて御覧なすったら可いでしょう」「ええ、まあボツボツ集めてます……なんにも子供に遺して置く物もありませんから、せめて書籍でも遺そうと思いまして……」 大尉は黒い袴の中へ両手を差入れながら笑った。 その日、高瀬は・・・ 島崎藤村 「岩石の間」
・・・「なんの、貴方、稀にいらしって下すったんですもの」と相川の妻は如才なく、「どんなにか宿でも喜んでおりますんですよ」 こういう話をしているうちに、相川は着物を着更えた。やがて二人の友達は一緒に飯田町の宿を出た。 昼飯は相川が奢った・・・ 島崎藤村 「並木」
・・・ 直ぐ又、彼は魚に気を取られて仕舞いましたが、スバーは、傷つけられた牝鹿が、苦しみの中で、「私が、貴方に何をしたでしょう?」と訊きながら狩人の顔を見るように、プラタプの面を見守りました。 其日、彼女はもういつもの木の下には座・・・ 著:タゴールラビンドラナート 訳:宮本百合子 「唖娘スバー」
・・・貴族院議員、勲二等の御家柄、貴方がた文学者にとっては何も誇るべき筋みちのものに無之、古くさきものに相違なしと存じられ候が、お父上おなくなりのちの天地一人のお母上様を思い、私めに顔たてさせ然るべしと存じ候。『われひとりを悪者として勘当除籍、家・・・ 太宰治 「帰去来」
・・・私は、白髪の貴方を見てから死にたい。ことしの秋、私はあなたの小説をよみました。へんな話ですけれども、私は、友人のところであの小説を読んで、それから酒を呑んで、そのうちに、おう、おう、大声を放って泣いて、途中も大声で泣きながら家へかえって、ふ・・・ 太宰治 「虚構の春」
・・・ついては、先ず来月は帝大の巻にしたいと思いますが、貴方様にお願いできないかと思うのです。四百字詰原稿十五枚前後、内容はリアルに面白くお願いしたいと存じます。締切は、かならず、厳守して頂きたいと存じます。甚だ手紙で失礼ですが、ぜひ御承諾下さっ・・・ 太宰治 「二十世紀旗手」
・・・「フィロストラトスでございます。貴方のお友達セリヌンティウス様の弟子でございます。」その若い石工も、メロスの後について走りながら叫んだ。「もう、駄目でございます。むだでございます。走るのは、やめて下さい。もう、あの方をお助けになることは・・・ 太宰治 「走れメロス」
・・・ モスコフスキーは四十年前の婦人と今の婦人との著しい相違を考えると、知識の普及に従って追々は婦人の天才も輩出するようになりはしないか、と云うと、「貴方は予言が御好きのようだが、しかしその期待は少し根拠が薄弱だと思う。単に素養が増し智・・・ 寺田寅彦 「アインシュタインの教育観」
・・・それから私に「貴方御いそぎですか」と聞いた。私はこの警官に対して何となくいい感じを懐くと同時に自分の軽率な行為を恥じる心がかなり強く起った。 ここで自白しなければならない事は、私等が交番へはいると同時に、私は蟇口の中から自分の公用の名刺・・・ 寺田寅彦 「雑記(1[#「1」はローマ数字、1-13-21])」
・・・寺田寅彦さんと云う方は御座らぬかとわめくボーイの濁声うるさければ黙って居けるがあまりに呼び立つる故オイ何んだと起き上がれば貴方ですかと怪訝顔なるも気の毒なり。何ぞと言葉を和らげて聞けば、上等室の苅谷さんからこれを貴方へ、と差出す紙包あくれば・・・ 寺田寅彦 「東上記」
出典:青空文庫