・・・ 一体私がこの壷を買う事に決定してから取り落してこわしたのだから、別に私の方であやまる必要もなければ、主人も黙って破片を渡せばいいのではなかったかと、今になってみると考えられもする。これはどちらが正当だか私には分らない、とにかくその時は・・・ 寺田寅彦 「ある日の経験」
・・・別に悪いところにいるというのじゃないし、女を買うわけでもないんですもの。山中なんかへ行ってるよりか、よほど安心なもんや」「それにもうしばらく兄の容態も見たいと思っているんだ。今日いいかと思うと、明朝はまた変わるといったふうだから、東京へ・・・ 徳田秋声 「挿話」
・・・われわれは新しい流行の帽子を買うためにも、遠い国から来た葡萄酒を買うためにも、無論この銀座へ来ねばならぬが、それと同時に、有楽座などで聞く事を好まない「昔」の歌をば、なりたけ「昔」らしい周囲の中に聞き味おうとすればやはりこの辺の特種な限られ・・・ 永井荷風 「銀座」
・・・その時子規はどこからか夏蜜柑を買うて来て、これを一つ食えと云って余に渡した。余は夏蜜柑の皮を剥いて、一房ごとに裂いては噛み、裂いては噛んで、あてどもなくさまようていると、いつの間にやら幅一間ぐらいの小路に出た。この小路の左右に並ぶ家には門並・・・ 夏目漱石 「京に着ける夕」
・・・「オイ、若えの、お前は若え者がするだけの楽しみを、二分で買う気はねえかい」 蛞蝓は一足下りながら、そう云った。「一体何だってんだ、お前たちは。第一何が何だかさっぱり話が分らねえじゃねえか、人に話をもちかける時にゃ、相手が返事の出・・・ 葉山嘉樹 「淫賣婦」
・・・人事の失望は十に八、九、弟は兄の勝手に外出するを羨み、兄は親爺の勝手に物を買うを羨み、親爺はまた隣翁の富貴自在なるを羨むといえども、この弟が兄の年齢となり、兄が父となり、親爺が隣家の富を得るも、決して自由自在なるに非ず、案に相違の不都合ある・・・ 福沢諭吉 「学者安心論」
・・・それでたまたま珍らしい飲食商人が這入って来ると、余は奨励のためにそれを買うてやりたくなる。今朝は珍らしく納豆売りが来たので、邸内の人はあちらからもこちらからも納豆を買うて居る声が聞える。余もそれを食いたいというのではないが少し買わせた。虚子・・・ 正岡子規 「九月十四日の朝」
・・・教科書は明日買う。四月六日 月今日は入学式だった。ぼんやりとしてそれでいて何だか堅苦しそうにしている新入生はおかしなものだ。ところがいまにみんな暴れ出す。来年になるとあれがみんな二年生になっていい気になる。さ来年はみ・・・ 宮沢賢治 「或る農学生の日誌」
・・・たとえば、(きょう本を買うにしても三味この頃芝居の切符を買う人の買い方が大変変って来たとききます。預金封鎖の強化と失業におびやかされて、芝居ずきの人も手当りばったりに金を出さなくなったわけです。本やでも同じことが云われはじめました。本当にい・・・ 宮本百合子 「朝の話」
・・・きい邸を構えて、田畑に米麦を植えさせ、山では猟をさせ、海では漁をさせ、蚕飼をさせ、機織をさせ、金物、陶物、木の器、何から何まで、それぞれの職人を使って造らせる山椒大夫という分限者がいて、人なら幾らでも買う。宮崎はこれまでも、よそに買い手のな・・・ 森鴎外 「山椒大夫」
出典:青空文庫