・・・縁日の人出が三人四人と次第にその周囲に集ると、爺さんは煙管を啣えて路傍に蹲踞んでいた腰を起し、カンテラに火をつけ、集る人々の顔をずいと見廻しながら、扇子をパチリパチリと音させて、二、三度つづけ様に鼻から吸い込む啖唾を音高く地面へ吐く。すると・・・ 永井荷風 「伝通院」
・・・他のものは態と太十を起して蚊帳の釣手を切って後から逃げるというのであった。太十は其夜喚んでも容易に返辞がなかった。それ故そういう悪戯さえしなかったならば翌日ただ太十の怒った顔を発見するに過ぎなかったのである。盗んだ西瓜は遙かに隔たった路傍の・・・ 長塚節 「太十と其犬」
・・・何者か因果の波を一たび起してより、万頃の乱れは永劫を極めて尽きざるを、渦捲く中に頭をも、手をも、足をも攫われて、行くわれの果は知らず。かかる人を賢しといわば、高き台に一人を住み古りて、しろかねの白き光りの、表とも裏とも分ちがたきあたりに、幻・・・ 夏目漱石 「薤露行」
・・・醒めての後にも、私はそのヴィジョンを記憶しており、しばしば現実の世界の中で、異様の錯覚を起したりした。 薬物によるこうした旅行は、だが私の健康をひどく害した。私は日々に憔悴し、血色が悪くなり、皮膚が老衰に澱んでしまった。私は自分の養生に・・・ 萩原朔太郎 「猫町」
・・・ 流石は外国人だ、見るのも気持のいいようなスッキリした服を着て、沢山歩いたり、どうしても、どんなに私が自惚れて見ても、勇気を振い起して見ても、寄りつける訳のものじゃない処の日本の娘さんたちの、見事な――一口に云えば、ショウウインドウの内・・・ 葉山嘉樹 「淫賣婦」
・・・八時になッたらお起し申しますよ」 善吉がもすこしいてもらいたかッたお熊は室を出て行ッた。 室の障子を開けるのが方々に聞え、梯子を上り下りする草履の音も多くなッた。馴染みの客を送り出して、その噂をしているのもあれば、初会の客に別れを惜・・・ 広津柳浪 「今戸心中」
・・・ 一言の返事もせずに、地びたから身を起したのは、痩せ衰えた爺いさんである。白い鬚がよごれている。頭巾の附いた、鼠色の外套の長いのをはおっているが、それが穴だらけになっている。爺いさんはパンと腸詰とを、物欲しげにじっと見ている。 一本・・・ 著:ブウテフレデリック 訳:森鴎外 「橋の下」
・・・養家に行きて気随気儘に身を持崩し妻に疏まれ、又は由なき事に舅を恨み譏りて家内に風波を起し、終に離縁されても其身の恥辱とするに足らざるか。ソンナ不理窟はなかる可し。女子の身に恥ず可きことは男子に於ても亦恥ず可き所のものなり。故に父母の子を教訓・・・ 福沢諭吉 「女大学評論」
・・・されど若し其の身のある調子とか意気な調子とかいうものは如何なもので御座る、拙者未だ之を食うたことは御座らぬと、剽軽者あって問を起したらんには、よしや富婁那の弁ありて一年三百六十日饒舌り続けに饒舌りしとて此返答は為切れまじ。さる無駄口に暇潰さ・・・ 二葉亭四迷 「小説総論」
・・・ オオビュルナン先生はしずかに身を起して、その手紙を持って街に臨んだ窓の所に往って、今一応丁寧に封筒の上書を検査した。窓の下には幅の広い長椅子がある。先生は手紙をその上に置いて自身は馬乗りに椅子に掛けた。そして気の無さそうに往来を見卸し・・・ 著:プレヴォーマルセル 訳:森鴎外 「田舎」
出典:青空文庫