・・・西向きの家の前は往来を隔てた杉山と、その上の二千尺もあろうという坊主山で塞がれ、後ろの杉や松の生えた山裾の下の谷間は田や畠になっていて、それを越えて見わたされる限りの山々は、すっかり林檎畠に拓かれていた。手前隣りの低地には、杉林に接してポプ・・・ 葛西善蔵 「贋物」
・・・の域を越えて「見えるもの」の領分へ入って来るのです。――こうK君は申しました。そして、「先刻あなたはシューベルトの『ドッペルゲンゲル』を口笛で吹いてはいなかったですか」「ええ。吹いていましたよ」 と私は答えました。やはり聞こえて・・・ 梶井基次郎 「Kの昇天」
・・・です、それこそ今のおかたには想像にも及ばぬことで、じゃんと就業の鐘が鳴る、それが田や林や、畑を越えて響く、それ鐘がと素人下宿を上ぞうりのまま飛び出す、田んぼの小道で肥えをかついだ百姓に道を譲ってもらうなどいうありさまでした。 ある日樋口・・・ 国木田独歩 「あの時分」
・・・青年はこれらの恋愛を越えたる高所を持ちつつ、恋愛を追わねばならぬ。 さきに善への願いと恋愛の求めとをひとつに燃やしめよといったのもここに帰するのだ。恋以上のもののためには恋をも供えものとすることを互いに誓うことは恋をさらに高めることであ・・・ 倉田百三 「学生と生活」
・・・などにさながらにかかれているところであるが、瀬戸内海のうちの同じ島でも、私の村はそのうちの更に内海と称せられる湖水のような湾のなかにあるので、そこから丘を一つ越えてここへ来るとやや広々とした海と、その向うの讃岐阿波の連山へ見晴しがきいて、又・・・ 黒島伝治 「短命長命」
・・・そんなおまえじゃあ甲府の方へは出すまいとわたし達がしていても、雁坂を越えて東京へも行きかねはしない、吃驚するほどの意地っ張りにおなりだから。」と云った。すると源三はこれを聞いて愕然として、秘せぬ不安の色をおのずから見せた。というものは、・・・ 幸田露伴 「雁坂越」
・・・それを聞くと、この厚いコンクリートの壁を越えて、口で云えない感情のこみ上がってくるのを感ずる。 俺だちは同志の挨拶をかわす方法を、この「せき」と「くさめ」と「屁」に持っているワケだ。だから、鼻の穴が微妙にムズ痒くなって、今くさめが出るの・・・ 小林多喜二 「独房」
・・・と答えんかと予審廷へ出る心構えわざと燭台を遠退けて顔を見られぬが一の手と逆茂木製造のほどもなくさらさらと衣の音、それ来たと俊雄はまた顫えて天にも地にも頼みとするは後なる床柱これへ凭れて腕組みするを海山越えてこの土地ばかりへも二度の引眉毛また・・・ 斎藤緑雨 「かくれんぼ」
・・・ 城門前の石碑のあるあたりから、鉄道の線路を越え、二人は砂まじりの窪い道を歩いて行った。並んだ石垣と桑畠との見える小高い耕地の上の方には大手門の残ったのが裏側から望まれた。先生はその高い瓦屋根を高瀬に指して見せた。初めて先生が小諸へ移っ・・・ 島崎藤村 「岩石の間」
・・・あとで考えると、このへんで引き返しさえしたらよかったのに、自分はいつまでも馬の臀について、山畠を五つも六つも越えて、とうとお長の行くところまで行ったのであった。谷合いの畠にお長の双た親と兄の常吉がいた。二三寸延びた麦の間の馬鈴薯を掘っていた・・・ 鈴木三重吉 「千鳥」
出典:青空文庫