・・・お部屋の用意をしてお待ち申しておりやんすによって、どうぞごゆるりお越し下されやんせッ」 あっという間に、闇の中へ走りだしてしまった。 私はことの意外におどろいた。「あ、ちょっと……。宿はどこですか。どの道を行くんですか。ここ真っ・・・ 織田作之助 「秋深き」
・・・Kは小言を並べながらも、金の無い時には古本や古着古靴などまで持たして寄越した。彼は帰って来て、「そうらお土産……」と、赤い顔する細君の前へ押遣るのであった。(何処からか、救いのお使者がありそうなものだ。自分は大した贅沢な生活を望んで居るので・・・ 葛西善蔵 「子をつれて」
・・・この時脈は百三十を越して、時々結滞あり、呼吸は四十でした。すると、病人は直ぐ「看護婦さん、そりゃ間違っているでしょう。お母さん脈」といって手を差出しました。私はその手を握りながら「ああ脈は百十だね、呼吸は三十二」と訂正しました。普段から、こ・・・ 梶井久 「臨終まで」
・・・そんな間から所どころ、電燈をつけた座敷が簾越しに見えていた。レストランの高い建物が、思わぬところから頭を出していた。四条通はあすこかと思った。八坂神社の赤い門。電燈の反射をうけて仄かに姿を見せている森。そんなものが甍越しに見えた。夜の靄が遠・・・ 梶井基次郎 「ある心の風景」
一 笆に媚ぶる野萩の下露もはや秋の色なり。人々は争うて帰りを急ぎぬ。小松の温泉に景勝の第一を占めて、さしも賑わい合えりし梅屋の上も下も、尾越しに通う鹿笛の音に哀れを誘われて、廊下を行き交う足音もやや淋しくな・・・ 川上眉山 「書記官」
・・・ いずこまで越したもうやとのわが問いは貴嬢を苦しめしだけまたかの君の笑壺に入りたるがごとし。かの君、大磯に一泊して明日は鎌倉まで引っ返しかしこにて両三日遊びたき願いに候えど――。われ、そは御楽しみの事なるべし、大磯鎌倉は始めてのお越しに・・・ 国木田独歩 「おとずれ」
・・・自分では理由をつけて俺等は、多くの屍をふみ越して、その向うへ進んで行かなければならない。同志の屍を踏みこして。それから敵の屍をふみこして、と。だが、彼が云うようなことはあてになったもんじゃない。 彼は、勉強家でもない。律儀な、几帳面な男・・・ 黒島伝治 「自画像」
・・・は一帯の山つづきで、ちょうどその峰通りは西山梨との郡堺になっているほどであるから、もちろん樵夫や猟師でさえ踏み越さぬ位の仕方の無い勾配の急な地で、さて前はというと、北から南へと流れている笛吹川の低地を越してのその対岸もまた山々の連続である。・・・ 幸田露伴 「雁坂越」
・・・ 俺はその時、フト硝子戸越しに、汚い空地の隅ッこにほこりをかぶっている、広い葉を持った名の知れない草を見ていた。四方の建物が高いので、サン/\とふり注いでいる真昼の光が、それにはとゞいていない。それは別に奇妙な草でも何んでもなかったが―・・・ 小林多喜二 「独房」
・・・その三郎がめきめきと延びて来た時は、いつのまにか妹を追い越してしまったばかりでなく、兄の太郎よりも高くなった。三郎はうれしさのあまり、手を振って茶の間の柱のそばを歩き回ったくらいだ。そういう私が同じ場所に行って立って見ると、ほとんど太郎と同・・・ 島崎藤村 「嵐」
出典:青空文庫