・・・大路の人の跫音冴えし、それも時過ぎぬ。坂下に犬の吠ゆるもやみたり。一しきり、一しきり、檐に、棟に、背戸の方に、颯と来て、さらさらさらさらと鳴る風の音。この凩! 病む人の身をいかんする。ミリヤアドは衣深く引被ぐ。かくは予と高津とに寝よとてこそ・・・ 泉鏡花 「誓之巻」
・・・その重々しい文学士が下等新聞記者の片手間仕事になっていた小説――その時分は全く戯作だった――その戯作を堂々と署名して打って出たという事は実に青天の霹靂といおう乎、空谷の跫音といおう乎、著るしく世間を驚かしたものだ。 自分の事を言うのは笑・・・ 内田魯庵 「明治の文学の開拓者」
・・・そこへはばかるような小さい跫音がして、取り次ぎの女中兼看護婦が入ってきて、「患者がみえましたが。」と、告げました。「だれだ? 初診のものか。」と、院長は、目を光らしました。「はい、はじめての方で、よほどお悪いようなのでございます・・・ 小川未明 「三月の空の下」
・・・ 私はぽつねんと坐って、蜘蛛の跫音をきいた。それは、隣室との境の襖の上を歩く、さらさらとした音だった。太長い足であった。 寝ることになったが、その前に雨戸をあけねばならぬ、と思った。風通しの良い部屋とはどこをもってそう言うのか、四方・・・ 織田作之助 「秋深き」
・・・すくない乗客はたいてい一つ手前の駅で降りてしまうので、その寂しい小駅に降り立つ人影は跫音もせぬくらいまばらである。たった一人の時さえ稀らしくなく、わざわざ改札に起きだして来るのも億劫なのであろう。したがって渡し損ねた切符が随分袂のなかに溜っ・・・ 織田作之助 「道」
・・・が、彼等はスバーの跫音を覚えていました。言葉にこそ云わないけれども、彼女は、いかにも可愛くて堪らなそうに何か呟きます、牛共は、どんなに多くの言葉より、此優しい呟きをさとりました。彼女があやし、叱り、機嫌などを取ってやると、喋る大人がしてやる・・・ 著:タゴールラビンドラナート 訳:宮本百合子 「唖娘スバー」
・・・ 窓の女は人の跫音がすると、姿の見えない中から、チョイトチョイト旦那。チョイトチョイト眼鏡のおじさんとかいって呼ぶのが、チイト、チイートと妙な節がついているように聞える。この妙な声は、わたくしが二十歳の頃、吉原の羅生門横町、洲崎のケコロ・・・ 永井荷風 「寺じまの記」
・・・その跫音がその姿と共に、橋の影を浮べた水の面をかすかに渡って来るかと思うと忽ち遠くの工場から一斉に夕方の汽笛が鳴り出す……。わたくしは何となくシャルパンチエーの好んで作曲するオペラでもきくような心持になることができた。 セメントの大通は・・・ 永井荷風 「深川の散歩」
・・・、遠く両岸の町や工場もかくれて見えず、橋の影も日の暮れかかるころには朦朧とした水蒸気に包まれてしまうので、ここに杖を曳く時、わたくしは見る見る薄く消えて行く自分の影を見、一歩一歩風に吹き消される自分の跫音を聞くばかり。いかにも世の中から捨て・・・ 永井荷風 「放水路」
・・・かすかだった人声は次第にたかまり、やがて早足に歩く跫音がおこり、やがてかたまって駈けまわるとどろきになって来た。君たちは、話すことができる! 君たちは話すことができる! そういう歓喜の叫びが穴ぐらの底までつたわって来た。樽は、幾年ぶりかで穴・・・ 宮本百合子 「あとがき(『宮本百合子選集』第七巻)」
出典:青空文庫