・・・長く連なる廻廊を飛ぶにもあらず、踏むにもあらず、ただ影のままにて動く」「顔は」と髯なしが尋ねる時、再び東隣りの合奏が聞え出す。一曲は疾くにやんで新たなる一曲を始めたと見える。あまり旨くはない。「蜜を含んで針を吹く」と一人が評すると・・・ 夏目漱石 「一夜」
・・・わが坐わる床几の底抜けて、わが乗る壇の床崩れて、わが踏む大地の殻裂けて、己れを支うる者は悉く消えたるに等し。ギニヴィアは組める手を胸の前に合せたるまま、右左より骨も摧けよと圧す。片手に余る力を、片手に抜いて、苦しき胸の悶を人知れぬ方へ洩らさ・・・ 夏目漱石 「薤露行」
・・・ だが、彼はそこでへまを踏むわけには行かなかった。それが誰のものだろうが、そのバスケットは自分のものでなければ収拾する事が出来なかった。「だって兄さん。そりゃ俺んだよ。踏んづけちゃ困るね」「そんな大切なものなら、打っ捨らかし・・・ 葉山嘉樹 「乳色の靄」
・・・吉里は一番後れて、階段を踏むのも危険いほど力なさそうに見えた。「吉里さん、吉里さん」と、小万が呼び立てた時は、平田も西宮ももう土間に下りていた。吉里は足が縮んだようで、上り框までは行かれなかッた。「吉里さん、ちょいと、ちょいと」と、・・・ 広津柳浪 「今戸心中」
・・・深い雪を踏む、静かなさぐり足が、足音は立てない。破れた靴の綻びからは、雪が染み込む。 著:ブウテフレデリック 訳:森鴎外 「橋の下」
・・・短遮等より投げたる球を攫み得て第一基を踏むこと(もしくは身体の一部を触走者より早くば走者は除外となるなり。けだし走者は本基より第一基に向って走る場合においては単に進むべくしてあえて退くべからざる位置にあるをもって球のその身に触るるを待たずし・・・ 正岡子規 「ベースボール」
・・・しまいにはみんなの前を踏むようなかたちをして行ったり、いきなり喧嘩でも吹っかけるときのように、はねあがったり、みんなはそのたんびにざわざわ遁げるようになりました。さっきの夏フロックを着た紳士が心配そうにもみ手をしながら何か云おうとするのです・・・ 宮沢賢治 「ポラーノの広場」
・・・乾坤を照し尽す無量光埴の星さえ輝き初め我踏む土は尊や白埴木ぐれに潜む物の隈なく黄朽ち葉を装いなすは夜光の玉か神のみすまるか奇しき光りよ。常珍らなるかかる夜は燿郷の十二宮眼くるめく月の宮瑠璃・・・ 宮本百合子 「秋の夜」
・・・大ぶ江戸の坊様を安く踏むようになりゃあがったんだな。こうなっちゃあ為方がねえ。己もそこへ胡座を掻いて里芋の選分を遣っ附けた。ところが己はちびでも江戸子だ。こんな事は朝飯前だ。外の餓鬼が笊に一ぱい遣るうちに、己は二はい遣るのだ。百姓奴びっくり・・・ 森鴎外 「里芋の芽と不動の目」
・・・彼女は己が踏む道の上にあって、十字架を負った人のように烈しくあえいだ。今にも倒れそうな危うい歩きようである。 風聞が伝わった。「彼女病めり。」 彼女はこの時より一層高いある者を慕い初めた。烈しい情熱の酔いごこちよりも、もっと高い芸術・・・ 和辻哲郎 「エレオノラ・デュウゼ」
出典:青空文庫