一 豚 毛の黒い豚の群が、ゴミの溜った沼地を剛い鼻の先で掘りかえしていた。 浜田たちの中隊は、昂鉄道の沿線から、約一里半距った支那部落に屯していた。十一月の初めである。奉天を出発した時は、まだ、満洲の平原に青い草が見えていた・・・ 黒島伝治 「前哨」
・・・そこから十間ほど距って、背後に、一人の将校が膝をついて、銃を射撃の姿勢にかまえ兵卒をねらっていた。それはこちらからこそ見えるが、兵卒には見えないだろう。不意打を喰わすのだ。イワンは人の悪いことをやっていると思った。 大隊長が三四歩あとす・・・ 黒島伝治 「橇」
今を距ること三十余年も前の事であった。 今において回顧すれば、その頃の自分は十二分の幸福というほどではなくとも、少くも安康の生活に浸って、朝夕を心にかかる雲もなくすがすがしく送っていたのであった。 心身共に生気に充・・・ 幸田露伴 「蘆声」
・・・下宿と小路ひとつ距て製糸工場が在るのだ。そこの女工さんたちが、作業しながら、唄うのだ。なかにひとつ、際立っていい声が在って、そいつがリイドして唄うのだ。鶏群の一鶴、そんな感じだ。いい声だな、と思う。お礼を言いたいとさえ思った。工場の塀をよじ・・・ 太宰治 「I can speak」
・・・そした案配こ、おたがい野火をし距て、わらわ、ふた組にわかれていたずおん。かたかたの五六人、声をしそろえて歌ったずおん。 ――雀、雀、雀こ、欲うし。 ほかの方図のわらわ、それさ応え、 ――どの雀、欲うし? て歌ったとせえ。・・・ 太宰治 「雀こ」
・・・ 宝永五年の夏のおわりごろ、大隅の国の屋久島から三里ばかり距てた海の上に、目なれぬ船の大きいのが一隻うかんでいるのを、漁夫たちが見つけた。また、その日の黄昏時、おなじ島の南にあたる尾野間という村の沖に、たくさんの帆をつけた船が、小舟・・・ 太宰治 「地球図」
・・・たった三里くらいの彼方のわが家も、こうした入江で距てられていると、ひどく遠いところのように思われたのであった。その後故郷を離れて熊本に住み、東京に移り、また二年半も欧米の地を遍歴したときでも、この中学時代の海水浴の折に感じたような郷愁を感じ・・・ 寺田寅彦 「海水浴」
・・・高等な料理店へ行けば、室内も立派で清潔ではあるが、そこに集まって食事をしている人達が、あまりに自分とはかけ距れた別の世界に属する人達のようであった。そういう中に交じってみると、自分がただ一人間違ってまぎれ込んだ異国の旅人でもあるような心持が・・・ 寺田寅彦 「雑記(2[#「2」はローマ数字、1-13-22])」
・・・ 数十里、数百里を距てたる測候所の観測を材料として吾人はいわゆる等温線、等圧線を描き、あるいは風の流線の大勢を認定す。この際吾人の行為に裏書きする根拠はいずこにありやというに、第一にこれら要素の空間的時間的分布が規則正しきという事なり。・・・ 寺田寅彦 「自然現象の予報」
・・・街の人通りをのどかに見下ろしている刻下の心持はただ自分が一通りの義務を果してしまった、この間中からの仕事が一段落をつげたと云うだけの単純な満足が心の底に動いているので、過去の憂苦も行末の心配も吉野紙を距てた絵ぐらいに思われて、ただ何となく寛・・・ 寺田寅彦 「障子の落書」
出典:青空文庫