・・・「落ちる時に蹴爪ずいて生爪を剥がした」「生爪を? 痛むかい」「少し痛む」「あるけるかい」「あるけるとも。ハンケチがあるなら抛げてくれたまえ」「裂いてやろうか」「なに、僕が裂くから丸めて抛げてくれたまえ。風で飛ぶと・・・ 夏目漱石 「二百十日」
・・・ Kは九八丁距たった昔からの宿であった。「電報を打たなけりゃならないから」「じゃちょうどいいわ」 晴子が勢こんで手を叩いた。「お姉ちゃま、晩の御馳走買って来ない?」「よし! じゃ行こう」 彼等は街道を右にそれ、も・・・ 宮本百合子 「海浜一日」
・・・慶応に入院していた間に眼の検査をしてもらったところ、私の眼は右と左とで大変度がちがっているので、今かけている眼鏡より度はちがえられないが、瞳孔距離がちがうというので処方を書いて貰っていた、それをやっとこのごろ、今日、なおしに出かけたのです。・・・ 宮本百合子 「獄中への手紙」
・・・地図の上で指されるそれらの地区は本郷区のぐるりのどこかに隣接してはいてもうちのある林町界隈までは距っていた。心配は直接本郷あたりが襲撃されることではなくて、思いがけず大規模の被害が生じたときその真中に安全な本郷、またはこの辺が、逃げ場のない・・・ 宮本百合子 「田端の汽車そのほか」
・・・ 外の雪の音は厚い硝子に距てられて少しも聞えません。 非常に静かな部屋の中に二つの心は、安心し、疲れ、嬉しがりながらがっかりして口も利かずに見合って居るのでした。 午後になっても夕方になっても熱は出ません。 彼女は益々安心し・・・ 宮本百合子 「二月七日」
・・・ここは山のかいにて、公道を距ること遠ければ、人げすくなく、東京の客などは絶て見えず、僅に越後などより来りて浴する病人あるのみ。宿とすべき家を問うにふじえやというが善しという。まことは藤井屋なり。主人驚きて簷端傾きたる家の一間払いて居らす。家・・・ 森鴎外 「みちの記」
市の中心を距ること遠き公園の人気少き道を男女逍遥す。 女。そこでこれ切りおしまいにいたしましょうね。まあ、お互に成行に任せた方が一番よろしゅうございますからね。つまりそうした時が来ましたのですわ。さあ、お別れにこの手に・・・ 著:モルナールフェレンツ 訳:森鴎外 「最終の午後」
・・・そういう季節が、紅葉と新緑とから最も距たっていて、そうして最も落ちついた、地味な美しさのある時である。昔の人はちょうどそのころに年の始めを祝ったのであった。 和辻哲郎 「京の四季」
・・・戦争のもたらした残酷な不具癈疾、神経及び精神の錯乱、女子及び青年の道徳的頽廃、――これらの恐ろしかるべき現象も、ただ空間の距たりのゆえに我々にはほとんど響いて来ない。 しかしこの直接印象の希薄は、想像力の集中と、省察の緊張とによって、あ・・・ 和辻哲郎 「世界の変革と芸術」
・・・それとともに現在の社会組織や教育などというものが、知らず知らずの間にどれだけ人と人との間を距てているかということにも気づきました。心情さえ謙遜になっていれば、形は必ずしも問うに及ばぬと考えていた彼は、ここで形の意味をしみじみと感じました。・・・ 和辻哲郎 「土下座」
出典:青空文庫