・・・よしんば見つけられても、客引という私の身分が弁解してくれるので、いわば半分おおっぴら。文子が白浜にいる三日というものは、私はもうわれを忘れていました。今想いだしてもなつかしく、また恥しいくらい。 文子は三日いて客といっしょに大阪へ帰った・・・ 織田作之助 「アド・バルーン」
・・・また実際一円の香奠を友人に出して貰わねばならぬ様な身分の彼としては、一斤というお茶は貴重なものに違いなかった。で三百の帰った後で、彼は早速小包の横を切るのももどかしい思いで、包装を剥ぎ、そしてそろ/\と紙箱の蓋を開けたのだ。……新しいブリキ・・・ 葛西善蔵 「子をつれて」
・・・ 石井翁は一年前に、ある官職をやめて恩給三百円をもらう身分になった。月に割って二十五円、一家は妻に二十になるお菊と十八になるお新の二人娘で都合四人ぐらし、銀行に預けた貯金とても高が知れてるから、まず食って行けないというのが世間並みである・・・ 国木田独歩 「二老人」
・・・ たとい彼らにとって当面には、そして現実身辺には、合理的知性の操練と、科学知の蓄積とが適当で、かつユースフルであろうとも、彼らの宇宙的存在と、霊的の身分に関しては、彼らが本来合理的平民の子ではなくして、神秘的の神の胤であることを耳に吹き・・・ 倉田百三 「学生と読書」
・・・ ところが、彼等は遊んでいられる身分ではない。丁度、秋蚕の時分だし、畑の仕事もある。そこで、一文にもならないのならば、彼等は棄権する。二里も三里もを往って帰れば半日はつぶしてしまうからだ。 金を貰えば、それは行く。五十銭でもいゝ。只・・・ 黒島伝治 「選挙漫談」
・・・内の人の身分が好くなり、交際が上って来るにつけ、わたしが足らぬ、つり合い足らぬと他の人達に思われ云われはせぬかという女気の案じがなくも無いので、自分の事かしらんとまたちょっと疑ったが、どうもそうでも無いらしい。 定まって晩酌を取るという・・・ 幸田露伴 「鵞鳥」
・・・ また或とき、ディオニシアスは、友人のドモクレスという人が、たった一日でもいいから、ディオニシアスのような身分になって見たいと言って羨んだということを聞き出しました。それですぐにそのドモクレスを呼んで、さまざまの珍らしいきれいな花や、香・・・ 鈴木三重吉 「デイモンとピシアス」
・・・だいいち、ご身分が凄い。四国の或る殿様の別家の、大谷男爵の次男で、いまは不身持のため勘当せられているが、いまに父の男爵が死ねば、長男と二人で、財産をわける事になっている。頭がよくて、天才、というものだ。二十一で本を書いて、それが石川啄木とい・・・ 太宰治 「ヴィヨンの妻」
・・・鞭を持っていたのは、慣れない為事で草臥れた跡で、一鞍乗って、それから身分相応の気晴らしをしようと思ったからである。 その晩のうちにチルナウエルは汽船に乗り込んで、南へ向けて立った。最初に着く土地はトリエストである。それから先きへ先きへと・・・ 著:ダビットヤーコプ・ユリウス 訳:森鴎外 「世界漫遊」
・・・従ってこの変った家庭の成立についても細君の元の身分についても、何事も確かな事は聞かれなかった。今は黒田も地方へ行ってしまってイタリア人の話をする機会も絶えた。 こんな事を色々思い出して帰って来ると宅のきたないのが今更のように目に付く。よ・・・ 寺田寅彦 「イタリア人」
出典:青空文庫