・・・現にその日も万八の下を大川筋へ出て見ますと、大きく墨をなすったような両国橋の欄干が、仲秋のかすかな夕明りを揺かしている川波の空に、一反り反った一文字を黒々とひき渡して、その上を通る車馬の影が、早くも水靄にぼやけた中には、目まぐるしく行き交う・・・ 芥川竜之介 「開化の良人」
・・・ 十三「口惜しい!」 紫玉は舷に縋って身を震わす。――真夜中の月の大池に、影の沈める樹の中に、しぼめる睡蓮のごとく漾いつつ。「口惜しいねえ。」 車馬の通行を留めた場所とて、人目の恥に歩行みもならず、――金・・・ 泉鏡花 「伯爵の釵」
・・・そう言った広大な、人や車馬や船や生物でちりばめられた光景が、どうかしてこの暗黒のなかへ現われてくれるといい。そしてそれが今にも見えて来そうだった。耳にもその騒音が伝わって来るように思えた。 葉書へいたずら書きをした彼の気持も、その変てこ・・・ 梶井基次郎 「城のある町にて」
・・・また右手の小高き岡に上って見下ろせば木の間につゞく車馬老若の絡繹たる、秋なれども人の顔の淋しそうなるはなし。杉の大木の下に床几を積み上げたるに落葉やゝ積りて鳥の糞の白き下には小笹生い茂りて土すべりがちなるなど雑鬧の中に幽趣なるはこの公園の特・・・ 寺田寅彦 「半日ある記」
・・・囿方数里。車馬ノ者モ往キ、杖履ノ者モ往ク。民偕ニ之ヲ楽ンデ其大ナルヲ知ラズ。京中都人士ガ行楽ノ地、実ニ此ヲ以テ最第一トナス。」 上野の桜は都下の桜花の中最早く花をつけるものだと言われている。飛鳥山隅田堤御殿山等の桜はいずれも上野につぐも・・・ 永井荷風 「上野」
・・・一時間の後倫敦の塵と煤と車馬の音とテームス河とはカーライルの家を別世界のごとく遠き方へと隔てた。 夏目漱石 「カーライル博物館」
・・・それは歩行する人以外に、物音のする車馬の類が、一つも通行しないためであった。だがそればかりでなく、群集そのものがまた静かであった。男も女も、皆上品で慎み深く、典雅でおっとりとした様子をしていた。特に女性は美しく、淑やかな上にコケチッシュであ・・・ 萩原朔太郎 「猫町」
・・・甚だしき遊蕩の沙汰は聞かれざれども、とかく物事の美大を悦び、衣服を美にし、器什を飾り、出るに車馬あり、居るに美宅あり。世間の交際を重んずるの名を以て、附合の機に乗ずれば一擲千金もまた愛しまず。官用にもせよ商用にもせよ、すべて戸外公共の事に忙・・・ 福沢諭吉 「教育の事」
・・・したものや、地理地形を書くことを目的としたものや、風俗習慣を書くことを目的としたものや、あるいはその地の政治経済教育の有様より物産に至るまで細かに記する事を目的としたもの、あるいは個人的に旅行の里程、車馬の賃、宿泊料などの事を一々に記したも・・・ 正岡子規 「徒歩旅行を読む」
・・・最も注意をひかれるそれ等の箇所については分析の力を有たぬ、而も堂々たる文学評論が漱石によって明治四十二年に書かれたこと、そしてこの大文学者が生涯を通じて非文化的非人格的存在と見た社会層の一端には常に「車馬丁」がおかれ、他の一端には「成金」が・・・ 宮本百合子 「風俗の感受性」
出典:青空文庫