・・・それから堀尾一等卒へ、じろりとその眼を転ずると、やはり右手をさし伸べながら、もう一度同じ事を繰返した。「お前も大元気にやってくれ。」 こう云われた堀尾一等卒は、全身の筋肉が硬化したように、直立不動の姿勢になった。幅の広い肩、大きな手・・・ 芥川竜之介 「将軍」
・・・雨、雷鳴、お島婆さん、お敏、――そんな記憶をぼんやり辿りながら、新蔵はふと眼を傍へ転ずると、思いがけなくそこの葭戸際には、銀杏返しの鬢がほつれた、まだ頬の色の蒼白いお敏が、気づかわしそうに坐っていました。いや、坐っているばかりか、新蔵が正気・・・ 芥川竜之介 「妖婆」
・・・しかしこればかりでは地球がいやでも西から東に転ずるのと少しも違ったところはない、徹した心持がない、生きていない、不満足である。そこでいろいろ考えて見ると、どうもやはりその底に撞きあたるものは神でも真理でもなくして、自己という一石であるように・・・ 島村抱月 「序に代えて人生観上の自然主義を論ず」
・・・ すこしお世辞が過ぎたのに気づいて下僚は素早く話頭を転ずる。「きょうの録音は、いつ放送になるんです?」「知らん」 知っているのだけれども、知らんと言ったほうが人物が大きく鷹揚に見える。彼は、きょうの出来事はすべて忘れたような・・・ 太宰治 「家庭の幸福」
・・・どうも、気持が浮き立たぬので、田島は、すばやく話頭を転ずる。「君も、しかし、いままで誰かと恋愛した事は、あるだろうね。」「ばからしい。あなたみたいな淫乱じゃありませんよ。」「言葉をつつしんだら、どうだい。ゲスなやつだ。」 急・・・ 太宰治 「グッド・バイ」
・・・ふと傍に眼を転ずると、私のゆうべ着て出た着物が、きちんと畳まれて枕もとに置かれて在る。私の新しい小さい妹が、ゆうべ私に脱がせて畳んでいって呉れたものに違いない。 それから二日目に、火事である。私は、まだ仕事で、起きていた。夜中の二時すぎ・・・ 太宰治 「新樹の言葉」
・・・私は、すかさず話頭を転ずる。「時間をきめてあの本屋で待ち合せていたようなものだ。」「本当にねえ。」と、こんどは私の甘い感慨に難なく誘われた。 私は調子に乗り、「映画を見て時間をつぶして、約束の時間のちょうど五分前にあの本屋へ行っ・・・ 太宰治 「メリイクリスマス」
・・・布等についてはなかなか詳しく調べ上げられているのであるが、肝心の颱風の成因についてはまだ何らの定説がないくらいであるから、出来上がった颱風が二十四時間後に強くなるか弱くなるか、進路をどの方向にどれだけ転ずるかというような一番大事な事項を決定・・・ 寺田寅彦 「颱風雑俎」
・・・福見や河野が洋行する話や、桜井が内務省の参事官で幅を利かせているような話が出ると竹村君は気の乗らぬ返辞をしてふっと話題を転ずるのであった。 今日も夕刻から神楽坂へ廻って、紙屋の店で暮の街の往来を眺めていた。店の出入りは忙しそうであったが・・・ 寺田寅彦 「まじょりか皿」
・・・これは理論上からは必ずしもそう困難なことではなく、前述のような分析を行なった上で、その疑いのあるものは淘汰して他に転ずるかあるいはまた前に述べたこともあるとおり、かくして不合格になったものを仮想的第二次前句と見立ててこれに対する付け句を求め・・・ 寺田寅彦 「連句雑俎」
出典:青空文庫