・・・が、瀬戸物のパイプを銜えたまま、煙を吹き吹き、その議論に耳を傾けていた老紳士は、一向辟易したらしい景色を現さない。鉄縁の鼻眼鏡の後には、不相変小さな眼が、柔らかな光をたたえながら、アイロニカルな微笑を浮べている。その眼がまた、妙に本間さんの・・・ 芥川竜之介 「西郷隆盛」
・・・なにしろ、塩せんべいと餡パンとを合わせると、四円ばかりになるんだから、三人とも少々、勘定には辟易しているらしい。 教壇の方を見ると、繩でくくった浅草紙や、手ぬぐいの截らないのが、雑然として取乱された中で、平塚君や国富君や清水君が、黒板へ・・・ 芥川竜之介 「水の三日」
・・・家血髑髏を貫き得たり 犬飼現八弓を杖ついて胎内竇の中を行く 胆略何人か能く卿に及ばん 星斗満天森として影あり 鬼燐半夜閃いて声無し 当時武芸前に敵無し 他日奇談世尽く驚く 怪まず千軍皆辟易するを 山精木魅威名を避く ・・・ 内田魯庵 「八犬伝談余」
・・・という言葉に辟易した。うじゃうじゃと、虫が背中を這うようだった。「ほんまに私は不幸な女やと思いますわ」 朝の陽が蒼黝い女の皮膚に映えて、鼻の両脇の脂肪を温めていた。 ちらとそれを見た途端、なぜだか私はむしろ女があわれに思えた。か・・・ 織田作之助 「秋深き」
・・・などという紋切型が、あるいは喋られあるいは書かれて、われわれをうんざりさせ、辟易させ、苦笑させる機会が多くて、私にそのたびに人生の退屈さを感じて、劇場へ行ったり小説を読んだり放送を聴いたりすることに恐怖を感じ、こんな紋切型に喜んでいるのが私・・・ 織田作之助 「大阪の可能性」
・・・私は辟易して、本当の話なんか書くもんですか、みな嘘ですよと言うと、そりゃそうでしょうね、やはり脚色しないと小説にはならないでしょう、しかし、吉屋信子なんか男の経験があるんでしょうな、なかなかきわどい所まで書いていますからね――と、これが髭を・・・ 織田作之助 「可能性の文学」
・・・と語って、大いに私を辟易させた。相手の女性はまだ十九歳だということである。私は爬虫類が背中を這い廻るような気がした。恋は二十代に限ると思う。 もっとも中年の恋がいかに薄汚なく気味悪かろうとも、当事者自身はそれ相応の青春を感じているのかも・・・ 織田作之助 「髪」
・・・私はどんな醜い女とでも喜んで歩くのだが、どんな美しい女でもその女が人眼に立つ奇抜な身装をしている時は辟易するのがつねであった。なるべく彼女と離れて歩きながら心斎橋筋を抜け、川添いの電車通りを四ツ橋まで歩き、電気科学館の七階にある天文館のバネ・・・ 織田作之助 「世相」
・・・ けれども、そのような絵は往々にしてこの部屋へ来る客たちを照れさせ、辟易させるという意味で逆効果を示す場合もあろう。 すくなくとも小沢は辟易していた。「まるでわざとのように、こんな絵を掛けやがった」 そう思ったのは、しかし一・・・ 織田作之助 「夜光虫」
・・・この女の人は平常可愛い猫を飼っていて、私が行くと、抱いていた胸から、いつもそいつを放して寄来すのであるが、いつも私はそれに辟易するのである。抱きあげて見ると、その仔猫には、いつも微かな香料の匂いがしている。 夢のなかの彼女は、鏡の前で化・・・ 梶井基次郎 「愛撫」
出典:青空文庫