・・・日の映った寝床の上に器械のように投出して、生きる望みもなく震えていた足だ…… その足で、比佐は漸くこの仙台へ辿り着いた。宿屋の娘にそれを言われるまでは実は彼自身にも気が着かなかった。 ここへ来て比佐は初めて月給らしい月給にもありつい・・・ 島崎藤村 「足袋」
・・・ 沈鬱な心境を辿りながら、彼は飯田町六丁目の家の方へ帰って行った。途々友達のことが胸に浮ぶ。確に老けた。朝に晩に逢う人は、あたかも住慣れた町を眺めるように、近過ぎて反って何の新しい感想も起らないが、稀に面を合せた友達を見ると、実に、驚く・・・ 島崎藤村 「並木」
・・・佐吉さんの家へ辿り着いたら、佐吉さんの家には沼津の実家のお母さんがやって来て居ました。私は御免蒙って二階へ上り、蚊帳を三角に釣って寝てしまいました。言い争うような声が聞えたので眼を覚まし、窓の方を見ると、佐吉さんは長い梯子を屋根に立てかけ、・・・ 太宰治 「老ハイデルベルヒ」
・・・ 第一日は物部川を渡って野市村の従姉の家で泊まって、次の晩は加領郷泊り、そうして三晩目に室津の町に辿り付いたように思う。翌日は東寺に先祖の一海和尚の墓に参って、室戸岬の荒涼で雄大な風景を眺めたり、昔この港の人柱になって切腹した義人の碑を・・・ 寺田寅彦 「初旅」
・・・ 探険の興は勃然として湧起ってきたが、工場地の常として暗夜に起る不慮の禍を思い、わたくしは他日を期して、その夜は空しく帰路を求めて、城東電車の境川停留場に辿りついた。 葛西橋の欄干には昭和三年一月竣工としてある。もしこれより以前に橋・・・ 永井荷風 「放水路」
・・・ 白露の中にほつかり夜の山 湯元に辿り着けば一人のおのこ袖をひかえていざ給え善き宿まいらせんという。引かるるままに行けばいとむさくろしき家なり。前日来の病もまだ全くは癒えぬにこの旅亭に一夜の寒気を受けんこと気遣わしくやや落胆した・・・ 正岡子規 「旅の旅の旅」
・・・何故あのひとたちの生活はあすこに陥ったのだろうかという一節を辿りつめてそこに女を殺している女らしさを見出し、それへの自分の新しい態度をきめて行こうとするよりは、多くの場合ずっと手前のところで止ってしまうと思う。ああはなりたくないと思う、そこ・・・ 宮本百合子 「新しい船出」
・・・粕壁へわざわざ大掃除見に来たって大笑いしたはいいが、食べる物がないんでしょう、ぺこぺこになってここへ辿りついた訳なんです。――二人でありぎり食べて御飯が足りないって騒いでいたら――どうしたろう、あの婆さん――我々が入って来る時見えませんでし・・・ 宮本百合子 「九月の或る日」
・・・ 第一、その一年のうちに物価が安定するどころか、きわめて急速に鰻のぼりの線を辿りはじめました。インフレーション防止のためにいろいろの対策が行われましたが、物価があがるのを防ぐことはできませんでした。いくら働いても給料は物価においつかなく・・・ 宮本百合子 「今年こそは」
・・・ぎを捕える芸術の社会性、そのような今日の顕著な人間性のリアリティーをもち得なくなったことから、従来の一部の作家が文学の大衆化を叫び出し、しかも大衆というものの誤った理解から誤った通俗化、低俗化への道を辿りはじめ、文学そのものを腐敗させつつあ・・・ 宮本百合子 「今日の文学に求められているヒューマニズム」
出典:青空文庫