・・・ いったい今度の会は、最初から出版記念とか何とかいった文壇的なものにするということが主意ではなかったので、ほんの彼の親しい友人だけが寄って、とにかくに彼のこのたびの労作に対して祝意を表そうではないかという話からできたものなのだ。それがい・・・ 葛西善蔵 「遁走」
・・・ 彼の視野のなかで消散したり凝聚したりしていた風景は、ある瞬間それが実に親しい風景だったかのように、またある瞬間は全く未知の風景のように見えはじめる。そしてある瞬間が過ぎた。――喬にはもう、どこまでが彼の想念であり、どこからが深夜の町で・・・ 梶井基次郎 「ある心の風景」
・・・そして私達はその夜から親しい間柄になったのです。 しばらくして私達は再び私の腰かけていた漁船のともへ返りました。そして、「ほんとうにいったい何をしていたんです」 というようなことから、K君はぼつぼつそのことを説き明かしてくれまし・・・ 梶井基次郎 「Kの昇天」
・・・この身に親しいインティメイトな感じが倫理学への愛と同情と研究の恒心とを保証するものなのである。 二 倫理学の入門 倫理学の祖といわれるソクラテス以来最近のシェーラーやハルトマンらの現象学派の倫理学にいたるまで、人間の・・・ 倉田百三 「学生と教養」
・・・ 大噐晩成先生はこれだけの談を親しい友人に告げた。病気はすべて治った。が、再び学窓にその人は見われなかった。山間水涯に姓名を埋めて、平凡人となり了するつもりに料簡をつけたのであろう。或人は某地にその人が日に焦けきったただの農夫と・・・ 幸田露伴 「観画談」
・・・彼女の周囲にあった親しい人達は、一人減り、二人減り、長年小山に出入してお家大事と勤めて呉れたような大番頭の二人までも早やこの世に居なかった。彼女は孤独で震えるように成ったばかりでなく、もう長いこと自分の身体に異状のあることをも感じていた。彼・・・ 島崎藤村 「ある女の生涯」
・・・この山の上へ来て二度七月をする高瀬には、学校の窓から見える谷や岡が余程親しいものと成って来た。その田圃側は、高瀬が行っては草を藉き、土の臭気を嗅ぎ、百姓の仕事を眺め、畠の中で吸う嬰児の乳の音を聞いたりなどして、暇さえあれば歩き廻るのを楽みと・・・ 島崎藤村 「岩石の間」
・・・丘の上の一つ家の黄昏に、こんな思いも設けぬ女の人がのこりと現れて、さも親しい仲のように対してくる。かつて見も知らねば、どこの誰という見当もつかぬ。自分はただもじもじと帯上を畳んでいたが、やっと、「おばさんもみんな留守なんだそうですね」と・・・ 鈴木三重吉 「千鳥」
・・・母にとって、娘と云うものは、息子よりずっと自分に親しい一部分です。娘の欠点は、自分の恥の源ともなります。父親のバニカンタは、却って他の娘達より深くスバーを愛しましたが、母親は、自分の体についた汚点として、厭な気持で彼女を見るのでした。 ・・・ 著:タゴールラビンドラナート 訳:宮本百合子 「唖娘スバー」
・・・ どんなに親しい間柄とは言っても、私とその嫁とは他人なのだし、私だって、まだよぼよぼの老人というわけではなし、まして相手は若い美人で、しかも亭主が出征中に、夜おそくのこのこ訪ねて行って、そうして二人きりで炉傍で話をするというのは、普通な・・・ 太宰治 「嘘」
出典:青空文庫