・・・「それは逃げるのが当然です。何しろいきなり日本兵が、躍りかかってきたのですから。」 もう一人の支那人、――鴉片の中毒に罹っているらしい、鉛色の皮膚をした男は、少しも怯まずに返答した。「しかしお前たちが通って来たのは、今にも戦場に・・・ 芥川竜之介 「将軍」
・・・するとその途端です。坊ちゃんは突然飛び上ると、大声にこう叫びました。「お父さん! お母さん! 白がまた帰って来ましたよ!」 白が! 白は思わず飛び起きました。すると逃げるとでも思ったのでしょう。お嬢さんは両手を延ばしながら、しっかり・・・ 芥川竜之介 「白」
・・・と同時に、自分でもどうすることもできない力に引っ張られて、すたすたと逃げるように行手の道に歩きだした。しかも彼の胸の底で、手を合わすようにして「許してくれ許してくれ」と言い続けていた。自分の行くべき家は通り過ぎてしまったけれども気もつかなか・・・ 有島武郎 「卑怯者」
・・・ようにしてずるりと下りて店さきへ駆け出すと、欄干の下を駆け抜けて壁について今、婆さんの前へ衝と来たお米、素足のままで、細帯ばかり、空色の袷に襟のかかった寝衣の形で、寝床を脱出した窶れた姿、追かけられて逃げる風で、あわただしく越そうとする敷居・・・ 泉鏡花 「政談十二社」
・・・ 幸に家族の者が逃げる時に消し忘れたものらしく、ランプが点して釣り下げてあった。天井高く釣下げたランプの尻にほとんど水がついておった。床の上に昇って水は乳まであった。醤油樽、炭俵、下駄箱、上げ板、薪、雑多な木屑等有ると有るものが浮いてい・・・ 伊藤左千夫 「水害雑録」
・・・は草の枯れた広野を分けて衣の裾を高くはしょり霜月の十八日の夜の道を宵なので月もなく推量してたどって行くと脇道から人の足音がかるくたちどまったかと思うと大男が槍のさやをはらってとびかかるのをびっくりして逃げる時にふりかえって見ると最前情をかけ・・・ 著:井原西鶴 訳:宮本百合子 「元禄時代小説第一巻「本朝二十不孝」ぬきほ(言文一致訳)」
・・・歓楽湧くが如き仮装の大舞踏会の幕が終ると、荒涼たる日比谷原頭悪鬼に追われる如く逃げる貴夫人の悲劇、今なら新派が人気を呼ぶフィルムのクライマックスの場面であった。 風説は風説を生じ、弁明は弁明を産み、数日間の新聞はこの噂の筆を絶たなかった・・・ 内田魯庵 「四十年前」
秋風が吹きはじめると、高原の別荘にきていた都の人たちは、あわただしく逃げるように街へ帰ってゆきました。そのあたりには、もはや人影が見えなかったのであります。 ひとり、村をはなれて、山の小舎で寝起きをして、木をきり、炭をたいていた治・・・ 小川未明 「手風琴」
・・・私は匂いの逃げるのを恐れて、カーテンを閉めた。しかし、その隙間から、肌寒い風が忍び込んで来た。そして私のさびしい心の中をしずかに吹き渡った。それが私を悲しませた。 一週間すると、金木犀の匂いが消えた。黄色い花びらが床の間にぽつりぽつりと・・・ 織田作之助 「秋の暈」
・・・そして、いきなりくるりと身をひるがえして、逃げるように立ち去ってしまった。ひどくこせこせした歩き方だった。それがなにかあわれだった。 女は特徴のある眇眼を、ぱちぱちと痙攣させた。唇をぎゅっと歪めた。狼狽をかくそうとするさまがありありと見・・・ 織田作之助 「秋深き」
出典:青空文庫