・・・ かっと逆上せて、堪らずぬっくり突立ったが、南無三物音が、とぎょッとした。 あッという声がして、女中が襖をと思うに似ず、寂莫として、ただ夫人のものいうと響くのが、ぶるぶると耳について、一筋ずつ髪の毛を伝うて動いて、人事不省ならんとす・・・ 泉鏡花 「伊勢之巻」
・・・ 女房は手拭を掻い取ったが、目ぶちのあたりほんのりと、逆上せた耳にもつれかかる、おくれ毛を撫でながら、「厭な児だよ、また裾を、裾をッて、お引摺りのようで人聞きが悪いわね。」「錦絵の姉様だあよ、見ねえな、皆引摺ってら。」「そり・・・ 泉鏡花 「海異記」
・・・「芬とえた村へ入ったような臭がする、その爺、余り日南ぼッこを仕過ぎて逆上せたと思われる、大きな真鍮の耳掻を持って、片手で鼻に杖をついたなり、馬面を据えておいて、耳の穴を掻きはじめた。」「あれは癖でございまして、どんな時でも耳掻を放し・・・ 泉鏡花 「政談十二社」
・・・省作は胸がおどって少し逆上せた。人に怪しまれやしまいかと思うと落ち着いていられなくなった。省作は出たくもない便所へゆく。便所へいってもやはり考えられる。 それではおとよさんは、どうもおれを思ってるのかもしれない。そうするとおとよさんはよ・・・ 伊藤左千夫 「隣の嫁」
・・・今度は三十ばかしの野郎よ、野郎じゃアねッからお話になんねエ、十七、八の新造と来なきゃア、そうよそろそろ暑くなるから逆上せるかもしんねエ。』と大きな声で言うのは『踏切の八百屋』である。『そうよ懐が寒くなると血がみんな頭へ上って、それで気が・・・ 国木田独歩 「郊外」
・・・前が開て膝頭が少し出ていても合そうとも仕ない、見ると逆上せて顔を赤くして眼は涙に潤み、頻りに啜泣を為ている。「どうしたと云うのだ、え?」と磯は問うたが、この男の持前として驚いて狼狽えた様子は少しも見えない。「磯さん私は最早つくづく厭・・・ 国木田独歩 「竹の木戸」
・・・彼は縁側に凭れて、五月の日のあたった林檎の花や葉を見ていたが、妻のお島がそこへ来て何気なく立った時は、彼は半病人のような、逆上せた眼付をしていた。「なんだか、俺は――気でも狂いそうだ」 と串談らしく高瀬が言うと、お島は縁側から空を眺・・・ 島崎藤村 「岩石の間」
・・・私は自身の思わぬ手柄に、たしかに逆上せてしまったのである。「さ、手を離してあげる。いま、雨戸をあけてあげますからね。」いったい、どんな気で、そんな変調子のことを言い出したものか、あとでいくら考えてみても、その理由は、判明しなかった。私は・・・ 太宰治 「春の盗賊」
・・・さっそくブルブルッとふるえあがり、青白く逆上せてしまい唇をきっとかみながらすぐひどく手をまわして、すなわち一ぺん東京まで手をまわして風下にいる軽便鉄道の電信柱に、シグナルとシグナレスの対話がいったいなんだったか、今シグナレスが笑ったことは、・・・ 宮沢賢治 「シグナルとシグナレス」
・・・土神はいかにも嬉しそうににやにやにやにや笑って寝そべったままそれを見ていましたが間もなく木樵がすっかり逆上せて疲れてばたっと水の中に倒れてしまいますと、ゆっくりと立ちあがりました。そしてぐちゃぐちゃ大股にそっちへ歩いて行って倒れている木樵の・・・ 宮沢賢治 「土神ときつね」
出典:青空文庫