・・・ これはあるじの国許から、五ツになる男の児を伴うて、この度上京、しばらくここに逗留している、お民といって縁続き、一蒔絵師の女房である。 階下で添乳をしていたらしい、色はくすんだが艶のある、藍と紺、縦縞の南部の袷、黒繻子の襟のなり、ふ・・・ 泉鏡花 「女客」
・・・可哀相でね、お金子を遣って旅籠屋を世話するとね、逗留をして帰らないから、旦那は不断女にかけると狂人のような嫉妬やきだし、相場師と云うのが博徒でね、命知らずの破落戸の子分は多し、知れると面倒だから、次の宿まで、おいでなさいって因果を含めて、…・・・ 泉鏡花 「第二菎蒻本」
・・・…… 境は奈良井宿に逗留した。ここに積もった雪が、朝から降り出したためではない。別にこのあたりを見物するためでもなかった。……昨夜は、あれから――鶫を鍋でと誂えたのは、しゃも、かしわをするように、膳のわきで火鉢へ掛けて煮るだけのこと・・・ 泉鏡花 「眉かくしの霊」
・・・玄関へ立つと、面長で、柔和かなちっとも気取っけのない四十ぐらいな――後で聞くと主人だそうで――質素な男が出迎えて、揉手をしながら、御逗留か、それともちょっと御入浴で、と訊いた時、客が、一晩お世話に、と言うのを、腰を屈めつつ畏って、どうぞこれ・・・ 泉鏡花 「みさごの鮨」
・・・賑いますのは花の時分、盛夏三伏の頃、唯今はもう九月中旬、秋の初で、北国は早く涼風が立ますから、これが逗留の客と云う程の者もなく、二階も下も伽藍堂、たまたまのお客は、難船が山の陰を見附けた心持でありますから。「こっちへ。」と婢女が、先に立・・・ 泉鏡花 「湯女の魂」
・・・というは馬喰町の郡代屋敷へ訴訟に上る地方人の告訴状の代書もすれば相談対手にもなる、走り使いもすれば下駄も洗う、逗留客の屋外囲の用事は何でも引受ける重宝人であった。その頃訴訟のため度々上府した幸手の大百姓があって、或年財布を忘れて帰国したのを・・・ 内田魯庵 「淡島椿岳」
・・・乱筆御用捨三十日斎藤内田様コウ書イタママデ電車ニ飛乗リマシタノデ、今日マデ机ノ上ニ逗留シテオリマシタ、昨夜帰宅イタシマシタバカリデ今マタ東京へ立チマスノデ書直スヒマガアリマセヌ、ナゼソンナニアワテルカトオ思召シマショウガ・・・ 内田魯庵 「斎藤緑雨」
・・・この『罪と罰』を読んだのは明治二十二年の夏、富士の裾野の或る旅宿に逗留していた時、行李に携えたこの一冊を再三再四反覆して初めて露西亜小説の偉大なるを驚嘆した。 私は詞藻の才が乏しかったから、初めから文人になれようともまたなろうとも思わな・・・ 内田魯庵 「二葉亭余談」
・・・「本当とも、じつはね、こんな所にこんなに永く逗留するつもりじゃなかったんだが、君とも心安くなるし、ついこんなに永逗留をしてしまったわけさ、それでね、君に旅用だけでも遺してってあげようと思ったんだが、広くもねえ町を、あまりいつまでも荒した・・・ 小栗風葉 「世間師」
俳優というものは、如何いうものか、こういう談を沢山に持っている、これも或俳優が実見した談だ。 今から最早十数年前、その俳優が、地方を巡業して、加賀の金沢市で暫時逗留して、其地で芝居をうっていたことがあった、その時にその・・・ 小山内薫 「因果」
出典:青空文庫