・・・甚太夫はこの書面へ眼を通すと、おもむろに行燈をひき寄せて、燈心の火をそれへ移した。火はめらめらと紙を焼いて、甚太夫の苦い顔を照らした。 書面は求馬が今年の春、楓と二世の約束をした起請文の一枚であった。 三 ・・・ 芥川竜之介 「或敵打の話」
・・・と云う一冊の本へ目を通すことにした。黄いろい表紙をした「希臘神話」は子供の為に書かれたものらしかった。けれども偶然僕の読んだ一行は忽ち僕を打ちのめした。「一番偉いツォイスの神でも復讐の神にはかないません。……」 僕はこの本屋の店を後・・・ 芥川竜之介 「歯車」
・・・ 神将 誰だ、貴様は? 使 わたしは黄泉の使です。どうかそこを通して下さい。 神将 通すことはならぬ。 使 わたしは小町をつれに来たのです。 神将 小町を渡すことはなおさらならぬ。 使 なおさらならぬ? あなたがたは・・・ 芥川竜之介 「二人小町」
・・・と快活に叫ぶ瞬間ほど、私の心の底までぐざと刮り通す瞬間はない。私はその時、ぎょっとして無劫の世界を眼前に見る。 世の中の人は私の述懐を馬鹿々々しいと思うに違いない。何故なら妻の死とはそこにもここにも倦きはてる程夥しくある事柄の一つに過ぎ・・・ 有島武郎 「小さき者へ」
・・・ 今はたとい足許が水になって、神路山の松ながら人肌を通す流に変じて、胸の中に舟を纜う、烏帽子直垂をつけた船頭なりとも、乗れとなら乗る気になった。立花は怯めず、臆せず、驚破といわば、手釦、襟飾を隠して、あらゆるものを見ないでおこうと、胸を・・・ 泉鏡花 「伊勢之巻」
・・・ それに透すと、背のあたりへぼんやりと、どこからか霧が迫って来て、身のまわりを包んだので、瘠せたか、肥えたか知らぬけれども、窪んだ目の赤味を帯びたのと、尖って黒い鼻の高いのが認められた。衣は潮垂れてはいないが、潮は足あとのように濡れて、・・・ 泉鏡花 「海異記」
・・・夜を降り通した雨は、又昼を降り通すべき気勢である。 さんざん耳から脅された人は、夜が明けてからは更に目からも脅される。庭一面に漲り込んだ水上に水煙を立てて、雨は篠を突いているのである。庭の飛石は一箇も見えてるのが無いくらいの水だ。いま五・・・ 伊藤左千夫 「水害雑録」
・・・時からつかわれて居た下男を夫にしてその土地を出て田舎に引き込んでその日暮しに男が犬をつって居ると自分は髪の油なんかうって居たけれどもこんなに落ぶれたわけをきいて買う人がないので暮しかね朝の露さえのどを通す事が出来ないでもう今は死ぬ許りになっ・・・ 著:井原西鶴 訳:宮本百合子 「元禄時代小説第一巻「本朝二十不孝」ぬきほ(言文一致訳)」
・・・ しかし、いいだしたうえは、なんでもそのことを通す主人の気質をよく知っていましたので、彼は、急に返事をせずに思案をしていました。「なんで、そんなに考え込んでいるか。そのかわり、もしおまえが魚を釣ってきたら、お金をたくさんやる。またお・・・ 小川未明 「北の国のはなし」
・・・こんどはらくらくと針のめどに糸を通すことができました。おばあさんは、めがねをかけたり、はずしたりしました。ちょうど子どものようにめずらしくて、いろいろにしてみたかったのと、もう一つは、ふだんかけつけないのに、きゅうにめがねをかけて、ようすが・・・ 小川未明 「月夜とめがね」
出典:青空文庫