・・・背中までしみ透るように澄んだ声だった。 すっと、衣ずれの音がして、襖がひらいた。熱っぽい体臭を感じて、私はびっくりして飛び上った。隣室の女がはいって来たのだった。「お邪魔やありません?」 襖の傍に突ったったまま、言った。「は・・・ 織田作之助 「秋深き」
・・・これはズッと昔の事、尤もな、昔の事と思われるのは是ばかりでない、おれが一生の事、足を撃れて此処に倒れる迄の事は何も彼もズッと昔の事のように思われるのだが……或日町を通ると、人だかりがある。思わずも足を駐めて視ると、何か哀れな悲鳴を揚げている・・・ 著:ガールシンフセヴォロド・ミハイロヴィチ 訳:二葉亭四迷 「四日間」
・・・睡れずに過した朝は、暗いうちから湿った薪を炉に燻べて、往来を通る馬子の田舎唄に聴惚れた。そして周囲のもの珍しさから、午後は耕太郎を伴れて散歩した。蕗の薹がそこらじゅうに出ていた。裏の崖から田圃に下りて鉄道線路を越えて、遠く川の辺まで寒い風に・・・ 葛西善蔵 「贋物」
・・・僕はよくそこから崖路を通る人を注意しているんですが、元来めったに人の通らない路で、通る人があったって、全く僕みたいにそこでながい間町を見ているというような人は決してありません。実際僕みたいな男はよくよくの閑人なんだ」「ちょっと君。そのレ・・・ 梶井基次郎 「ある崖上の感情」
・・・一二丁先の大通りを電車が通る。さて文公はどこへ行く? めし屋の連中も文公がどこへ行くか、もちろん知らないがしかしどこへ行こうと、それは問題でない。なぜなれば居残っている者のうちでも、今夜はどこへ泊まるかを決めていないものがある。この人々・・・ 国木田独歩 「窮死」
・・・防寒服を着た支那人が通る。 サヴエート同盟の市街、ブラゴウエシチェンスクと、支那の市街黒河とを距てる「海峡」は、その日から埋められた。黒橇や、荷馬車や、徒歩の労働者が、きゅうに檻から放たれた家畜のように、自由に嬉々として、氷上を辷り、頻・・・ 黒島伝治 「国境」
・・・付けてあるその遥に下の方の低いところで、いずれも十三四という女の児が、さすがに辺鄙でも媚き立つ年頃だけに紅いものや青いものが遠くからも見え渡る扮装をして、小籃を片手に、節こそ鄙びてはおれど清らかな高い徹る声で、桑の嫩葉を摘みながら歌を唄って・・・ 幸田露伴 「雁坂越」
・・・ 薄暗い面会所の前を通ると、そこの溜りから沢山の顔がこっちを向いた。俺は吸い残りのバットをふかしながら、捕かまるとき持っていた全財産の風呂敷包たった一つをぶら下げて入って行った。煙草も、このたった一本きりで、これから何年もの間モウのめな・・・ 小林多喜二 「独房」
・・・もし君が僕の言うことを聞く気があるなら、一つ働いて通る量見になりたまえ。何か君は出来ることがあるだろう――まあ、歌を唄うとか、御経を唱げるとか、または尺八を吹くとかサ。」「どうも是という芸は御座いませんが、尺八ならすこしひねくったことも・・・ 島崎藤村 「朝飯」
・・・女の人の教える方を見れば、青松葉をしたたか背負った頬冠りの男が、とことこと畦道を通る。間もなくこちらを背にして、道について斜に折れると思うと、その男はもはや、ただ大きな松葉の塊へ股引の足が二本下ったばかりのものとなって動いている。松葉の色が・・・ 鈴木三重吉 「千鳥」
出典:青空文庫