・・・遂にまた節を屈して東京に出て、文科大学の選科に入った。当時の選科生というものは惨じめなものであった、私は何だか人生の落伍者となったように感じた。学校を卒えてからすぐ田舎の中学校に行った。それから暫く山口の高等学校にいたが、遂に四高の独語教師・・・ 西田幾多郎 「或教授の退職の辞」
・・・当時の選科生というものは、誠にみじめなものであった。無論、学校の立場からして当然のことでもあったろうが、選科生というものは非常な差別待遇を受けていたものであった。今いった如く、二階が図書室になっていて、その中央の大きな室が閲覧室になっていた・・・ 西田幾多郎 「明治二十四、五年頃の東京文科大学選科」
・・・東大独文科選科二年生。学校にも殆ど出席せずふらふらした生活を送る。井上正夫、桝本清氏等と謀り野外劇を創む。 一九一四年。第三次『新思潮』を起す。「女親」を同誌に発表。二高で高等学校の検定試験を受け及第。大学の本科生となる。学資欠乏し、郷・・・ 宮本百合子 「山本有三氏の境地」
出典:青空文庫