・・・抽斗にしまって封をすれば、仏様の情を仇の女の邪念で、蛇、蛭に、のびちぢみ、ちぎれて、蜘蛛になるかも知れない。やり場がなかったんですのに、導びきと一所に、お諭しなんです。小県さん。あの沼は、真中が渦を巻いて底知れず水を巻込むんですって、爺さん・・・ 泉鏡花 「神鷺之巻」
・・・ この頃僕に一点の邪念が無かったは勿論であれど、民子の方にも、いやな考えなどは少しも無かったに相違ない。しかし母がよく小言を云うにも拘らず、民子はなお朝の御飯だ昼の御飯だというては僕を呼びにくる。呼びにくる度に、急いで這入って来て、本を・・・ 伊藤左千夫 「野菊の墓」
・・・ 邪念なく労働に服する人、無心に地の上で遊んでいる子供、そして、其処に生きているには変りのない、人間も、小羊も、また鶏に至るまで、同じ霊魂を持つことによって、軽かな大空の下に呼吸することに於て変りのない、其等がみんな仲の好い友達であり、・・・ 小川未明 「民衆芸術の精神」
・・・たったいま己の頬をパンパンパンと三つも殴った男の入歯が見つかったとて、邪念無くしんから喜んで下さる老画伯の心意気の程が、老生には何にもまして嬉しく有難く、入歯なんかどうでもいいというような気持にさえ相成り、然れども入歯もまた見つかってわるい・・・ 太宰治 「花吹雪」
・・・隈のない心が、間違いなくあらゆるもののしんにまで徹して滲み渡れるように、私共は邪念を払って慎しまなければならないのではあるまいか。 どうぞ毎日が、本心で終始されますように――。誰でも本心は授っている。けれども其本心がいつも光っているのは・・・ 宮本百合子 「一粒の粟」
出典:青空文庫