・・・しかるにこの種々な要素の数はなかなか多くてこれに注意を配るのはあまり容易な事ではない。必然に成効するためにはすべての点に対する注意が円満に具足しなければならぬ。誠に簡単なような実験でもその成効を妨げるような条件は無数にあって、成効の途はただ・・・ 寺田寅彦 「物理学実験の教授について」
・・・鏡の裏なる狭き宇宙の小さければとて、憂き事の降りかかる十字の街に立ちて、行き交う人に気を配る辛らさはあらず。何者か因果の波を一たび起してより、万頃の乱れは永劫を極めて尽きざるを、渦捲く中に頭をも、手をも、足をも攫われて、行くわれの果は知らず・・・ 夏目漱石 「薤露行」
・・・と思うと急にあたりに気を配る――午後六時。 宮本百合子 「秋風」
・・・ チョンと跳び、ついと一粒の粟を拾う間に、彼は非常なすばしこさで、ちらりと左右に眼を配る。右を見、左を見、体はひきそばめて、咄嗟に翔び立つ心構えを怠らない。可愛く、子供らしく、浮立って首を動かすのではない。何か痛ましい、東洋の不純な都会・・・ 宮本百合子 「餌」
・・・ 牛乳を家々に配る事と子牛のお守りが役目で寒さに風一つ引かずに暗いうちから働く。 牧場には十八九頭の牝牛と一匹の勢の強い種牛が居るほか二年子が三匹と当年子が一つ居てかなり賑って居る。 その中の四匹の子牛のお守りをするのだ。 ・・・ 宮本百合子 「旅へ出て」
・・・気がついて、夫人も話しながら体を動かして、菓子やその他を配るでしょう。 何についても、斯様な、安らかな協力があると思います。下婢を雇わない二人ぎりの家庭では、必ず妻が独りで食事の準備をすべきものとは思っていません。一緒に、何でも二人のた・・・ 宮本百合子 「男女交際より家庭生活へ」
・・・食事にしろ、部屋にしろ、何しろ気を配る。「人」は、愛する者に奉仕せずには居られない。然し、一方芸術のことは、箇人の全的統一と燃焼とを要求する。 此処に、家庭の主婦として芸術に指を染めようとする者と、先ず芸術を本領とし、愛する者の伴侶であ・・・ 宮本百合子 「小さき家の生活」
・・・王 わしが今そちの事に心を配るよりいく倍もいく倍も多くわしの事にそちは心配してお呉れやったもののう。老人は王の云うのには答えず。老人 母御の懐のむちゃにこいしゅうてござった頃貴方様はこの子守唄がおすきでのう。 ・・・ 宮本百合子 「胚胎(二幕四場)」
・・・ 舟には酒肴が出してあったが、一々どの舟へも、主人側のものを配ると云うような、細かい計画はしてなかったのか、世話を焼いて杯を侑めるものもない。こう云う時の習として、最初は一同遠慮をして酒肴に手を出さずに、只睨み合っていた。そのうち結城紬・・・ 森鴎外 「百物語」
・・・ このごろのならいとてこの二人が歩行く内にもあたりへ心を配る様子はなかなか泰平の世に生まれた人に想像されないほどであッて、茅萱の音や狐の声に耳を側たてるのは愚かなこと,すこしでも人が踏んだような痕の見える草の間などをば軽々しく歩行かない・・・ 山田美妙 「武蔵野」
出典:青空文庫