・・・の字と言う酒屋に嫁に行ったです。」 熱心になっていた「な」の字さんは多少失望したらしい顔をした。「半之丞の子は?」「連れっ子をして行ったです。その子供がまたチブスになって、……」「死んだんですか?」「いいや、子供は助かっ・・・ 芥川竜之介 「温泉だより」
・・・見る見る歯医者の家の前を通り過ぎて、始終僕たちをからかう小僧のいる酒屋の天水桶に飛び乗って、そこでまたきりきり舞いをして桶のむこうに落ちたと思うと、今度は斜むこうの三軒長屋の格子窓の中ほどの所を、風に吹きつけられたようにかすめて通って、それ・・・ 有島武郎 「僕の帽子のお話」
・・・それは百姓で、酒屋から家に帰りかかった酔漢であった。この男は目にかかる物を何でも可哀がって、憐れで、ああ人間というものは善いものだ、善い人間が己れのために悪いことをするはずがない、などと口の中で囁く癖があった。この男がたまたま酒でちらつく目・・・ 著:アンドレーエフレオニード・ニコラーエヴィチ 訳:森鴎外 「犬」
・・・に載すべき先生の原稿を、角の酒屋のポストに投入するのが日課だったことがある。原稿が一度なくなると復容易に稿を更め難いことは、我も人も熟く承知している所である。この大切な品がどんな手落で、遺失粗相などがあるまいものでもないという迷信を生じた。・・・ 泉鏡花 「おばけずきのいわれ少々と処女作」
・・・ 牛乳屋が露地へ入れば驚き、酒屋の小僧が「今日は」を叫べば逃げ、大工が来たと見ればすくみ、屋根屋が来ればひそみ、畳屋が来ても寄りつかない。 いつかは、何かの新聞で、東海道の何某は雀うちの老手である。並木づたいに御油から赤坂まで行く間・・・ 泉鏡花 「二、三羽――十二、三羽」
・・・の風采を、時々、水牛縁の眼鏡の上からじろりと視めるのが、意味ありそうで、この連中には小母御に見えて―― 湯帰りに蕎麦で極めたが、この節当もなし、と自分の身体を突掛けものにして、そそって通る、横町の酒屋の御用聞らしいのなぞは、相撲の取的が・・・ 泉鏡花 「露肆」
・・・村の酒屋へ瞽女を留めた夜の話だ。瞽女の唄が済んでからは省作の噂で持ち切った。「省作がいったいよくない。一方の女を思い切らないで、人の婿になるちは大の不徳義だ、不都合きわまった話だ。婿をとる側になってみたまえ、こんなことされて堪るもんか」・・・ 伊藤左千夫 「春の潮」
・・・ まもなく後に菊酒屋と云う有名な酒屋にやった所がここも秋口から物やかましいといやがられたので又、ここも縁がないのだからしかたがないと云って呼びかえした。其後又、今度は貸金までして仕度をして何にも商ばいをしない家にやるとここも人手が少なく・・・ 著:井原西鶴 訳:宮本百合子 「元禄時代小説第一巻「本朝二十不孝」ぬきほ(言文一致訳)」
・・・随って社員は月末の米屋酒屋の勘定どころか煙草銭にもしばしば差支えた。が、社長沼南は位置相当の門戸を構える必要があったとはいえ、堂々たる生活をしながら社員が急を訴えても空々しい貧乏咄をしてテンから相談対手にならなかった。 沼南はまた晩年を・・・ 内田魯庵 「三十年前の島田沼南」
・・・「昨日は酒屋の御用が来て、こちらさまのに善く似た犬の首玉に児供が縄を縛り付けて引摺って行くのを壱岐殿坂で見掛けたといったから、直ぐ飛んでって其処ら中を訊いて見たが、皆くれ解らなかった。児供に虐め殺された乎、犬殺しの手に掛ったか、どの道モウい・・・ 内田魯庵 「二葉亭余談」
出典:青空文庫